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2004/08/06

J.G.ブリル社の創業期

melma back number Vol.76, Nov. 21, 2001, re-edit July. 10, 2010

THE STREET RAILWAY JOURNAL SOUVENIR, OCTOBER, 1894

Brill_profile

 John George Brillが1847年にこの国に来たとき、おそらく彼は、自分の発明家魂と熟練の腕が、現在J. G. Brill Companyとなっている世界的規模にまで発展した事業に繋がることになるとは、よもや考えていなかったと思う。

 この国の指導者、すなわち偉大な世界的車両造業者の内のひとりは、1817年ドイツのCassel近郊で生まれた。彼の父は17才で軍隊に入り、Waterlooの戦役でHesse Cassel王子の護衛の一人として従軍したことがあった。
 その息子はBremenへ家具製造の技術を学びに出され、父親の死後にアメリカに渡ってPhiladelphiaに落ち着いた。彼は約25年間、車両製造業者のAllison Manufacturing Companyに勤めていた。【画像はクリックで拡大します】

 そして1868年にBrill氏は彼の息子 G. Martin Brillと共同でJ. G. Brill & Son商会という名の車両取引業を始めた。そして彼らの事業と資産が増えたので、当時数量においても、また重要性においても急激に増加しつつあった合衆国の市街鉄道向けにささやかながら車両製造を始めた。1872年、商会は最初の大きな車両の注文をメキシコ鉄道から獲得し、送られた車両によって評判と声望を得ることができた。そして、"ライオンのシェア"をBrill Companyは確保した。

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 会社の事業は続く15年間に急激に発展した。ケーブル・システムが発明され、この機械力による牽引方式の著しい成功は非常に大きな需要をもたらした。そしてBrill社は技術開発に取り組んだ結果、独創的なケーブルとなって、大きな市場を獲得するに至った。【左は"Street Railway Journal"誌1884年11月号に出した広告。「シカゴ鉄道博でGOLD MEDAL」の文言が見える】

 その顧客社名を列挙すればWest Chicago Street Railroad Company、St. LouisのMissouri Railroad Company、CincinnatiのMt. Auburn Cable Railway Company、New YorkのThird Avenue Railroad Company(125th Street Branch)、Pittsburgh Traction Company、St. Louis Cable and Western Railroad Company、North Chicago Street Railroad Company、 St. LouisのLindell Railway Company、及びValley City Street and Cable Railway Company of Grand Rapidsである。

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1891年、出荷を待つ単車。左のJamestownはニューヨークへ、その後ろのUnion Depotは不明、フラットカー上のWhitney Avenueはコネッチカットへ発送される。

 会社はまたこの間にもこの国の蒸気軌道向けにたくさんの車両を製作した。その旅客車と荷物合造車は特に人気があった。

 創業者のBrillは1888年9月22日に亡くなった。彼は先進的でかつ良心的な技術者で、車両の製造においてたくさんの新機軸を導入した。彼は彼の工場から出ていく全ての仕事があらゆる点で完全であることより外は金銭的見返りに意をあまり払わなかった。
 そして1883年、シカゴでの鉄道博覧会で授賞したGold Medalが彼の偉大な工業的業績を明示していると思われる。

 Brillの死に先だってJ. G. Brill & Son商会は J. G. Brill Companyの看板の下に株式会社となった。そして1888年から、事業は3人の兄弟、George M. Brill、 John A. Brill、Edward Brill、及び総務と会計を担当するJames Rawleによって運営されることなった。

 1887-88年に、市街鉄道事業に対しての電気モーター時代が事実上、到来した。この新しい動力を使った市街車両に様々な価値ある発明と改良を加えることによって新分野へ進出しようとしたBrillは当初より、電気軌道は馬車軌道と全く異なるもので、永続的な成功を得ようとするなら事業の新しい立地に思い切って立ち向かわなければならない、と見なしていた。
 すなわち、馬に適合するよりも遥かに大きく重い車体の採用と車体と電動台車の分離を主張した。そして彼らは確かに最初、このアイデアを実行するために必要な多大な投資の危険性を敢えて犯さない臆病な市街鉄道会社からのビジネスの僅かを失ったが、この進んだ考えはより保守的な会社も取り上げるところとなり、そしてその思想が結果によって完全に正しいことを証明されたのである。

 創業時の J. G. Brill & Sonの粗末な工場から、製造施設を世界中で最も大きい車両工場までに増大させる必要があると考えられ、PhiladelphiaのMt. Moriahに位置する約18エーカーの区域が確保された。そこはPennsylvania Railroad CompanyとBaltimore & Ohio Railroad Companyの路線上にあり、この両線からは良好な船積み施設が隣接していた。このイラストは事業の効率的な運営にとって工場がどれだけ見事に配置されているかを示している。
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1895年頃のフィラデルフィア工場、蒸機の向こうに"PENNSYLVANIA RAILROAD"の文字が見える

 左の4階建ての建物は煉瓦作りの172×40フィートで、オフィス、設計図室、貯蔵庫及び貯蔵室が入る。この建物の煉瓦作りの拡張部は図案室、鋳物及び鍛造工場である。工場建築は適切で、ひとつを除いて明り採りの小屋根を持つ波板の平屋又は切妻構造で、そして採光性がすこぶる良い。
 工場は300馬力の直立エンジンと3台のボイラーを収容した機関室から制御される。材木倉庫と置場は非常に広大で、主倉庫は338×56フィート、オーク倉庫は170×28フィートであり、近年また大きさを変えて6つの倉庫が建てられている。

 会社は車両の耐久性と寿命は、その事業のこの重要な部門に直接的に依存していると信じて、木材の選定と"からし"に多大な考慮を払っている。木材はその使用予定に先んじてよく選ばれ、"からし"のプロセスは木材 100,000フィートの容量を持つ広大な燥窯で仕上げられる。

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 George M. Brillは会社の製造部門を受け持ち、そしてそれを現存の完璧で完全な工場組織の一つに仕上げた。最も意を払ったコストの記録は維持されている。どんな材料も注文なしには獲得されず、そして仕事の全ての部分と全ての人員の労働時間はその日の終わりに完結する。利益は高い出費よりも低い費用の操作に依存し、またここ2、3年のビジネスの苛烈な競争において製造コストは十分な注意と厳しさによってもたらされると会社は考えている。

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 John A. Brillは、会社の膨大な事業がその大部分を彼の不屈のエネルギーとひたすら前へ突き進む経営方針とによっているが故に、会社の中で市街鉄道業界に最も名の通った人間である。そして典型的なアメリカ人の鋭敏で知的で、また力強いエネルギーを指す慣用句で“エレクトリック”な顔を持っている。彼は席の温まる暇もないほど飛び回って、度々Philadelphiaに出向き、その市における上流階級の最も知名人の内の一人となっている。彼は製造業者クラブのメンバーで、そこは通例Pennsylvaniaの保護貿易主義の総指令部と見なされているが、しかし関税改正の方向に対して強い考えを持っていて、その考えを表明することに躊躇しない。

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 Edward Brillは会社の木材部門と、製造部門に関する庶務と外部の業務とを担当する。毎年会社が必要とする何百万フィートもの木材を買い付けることと、それを受け取って材木置き場に適切に整理することは決して小さく重要でない仕事ではない。

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 James Rawleは会社の総務と会計で、財務部門を完全にコントロールしている。彼の名は彼の人格よりも会社の顧客に知られているが、彼自身の執務室で会った人々は丁重さ、手際良さと礼儀正しさが決して足りなくない証拠を得る。

■友人とブリル台車の話をしていて、十数年前にこの文章を翻訳し所属していた同好会の会報に掲載したことを思い出しました。元はアメリカのファンからいただいたコピーで、“提灯持ち”の内容からすれば多分、1894年当時の業界紙だろうと思います。なにぶんにも古い英語ですから、当方の力が及ばず読みにくい和訳になっていることはご容赦ください。

■画像は全てDebra Brill著"J. G. Brill Company"2001年刊から転載しました。2010-07-12

■さて、アンケートへの御回答を有難うございました。皆さんにアメリカ型で主に採用されているスケールについてお尋ねしたところ、28人の方々からご返事をいただき、次の様な結果となりました。

Zスケール 0人 0%  
Nスケール 5人 18% *****
TTスケール 0人 0%  
HOスケール 16人 57% ****************
Sスケール 0人 0%  
Oスケール 1人 4% *
Gスケール 3人 11% ***
その他 0人 0%  
やってない 3人 11% ***

 HOスケールの方がほとんどだろうと思っていましたところ、Nが5人とHOの1/3にも及び、またGが3人もおられたことは驚きでした。Oスケールの方は、もう少し多いと予想しておりましたので、私としては残念です。いずれにしろ、今後の誌面作りの参考にさせていただきたいと考えております。本当に有難うございました。

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