国鉄技師訪米記3:シカゴの2週間
melma! back issue 2006/01/23 Vol.165 total 269 copies
The book of a JNR engineer's travels around the USA in 1950, part 3
このテキストの経緯と詳細については、第1回をご覧ください。
2 シカゴの2週間
シャーマン・ホテルの食堂で一緒に食事をした後、ワグラー氏と別れて室に帰ると、電話のベルが鳴る。
「ハロー、Hello!」とぎこちない英語で言えば、懐かしい伊藤氏の声が聞こえる。「飛行場まで迎えに行ったが、標準時間とサマータイムとを間違えて会えなかった。今直ぐそちらへ行くから待っていてくれ」
20分ほどして室のノックの音と同時に氏の姿が見え、二人思わず、未だに二人の間では経験のない握手! をする。氏の言うように「こんな他国で今時兄弟二人が相会するなどとは全く幸運であり奇遇で」前途を祝した後、シカゴの街を散歩する。恥ずかしい話だがショーウィンドウに並ぶ、万年筆、服、カバン、ラジオ、タイプライター、ジレット等など、何でも皆珍しく、そして買いたいものばかりで、一心に眺めていると、「米国に着いた当座は見るもの皆珍しいし買いたくなるが、2週間もすると慣れて余り目に付かなくなる」と言われてハッとする始末。こんなことも原因の一つになったのであろうか、24時頃ホテルに帰りシャワーを浴びて床に入ったが、シアトルの夜ほどには快適な睡眠がとれなかった。確かに、興奮していたのであろう。あまりにも日本の国情と違う生活様式に急に飛び込みすっかり面食らった格好であった。
翌8月12日は土曜日、米国人の大部分は土曜と日曜を休暇としているためか街の中も何となしにのんびりした感じがする。シカゴの街を一日散歩した後、伊藤氏がユニオンパシフィック鉄道で西へ向かうのを駅まで見送る。ここで米国の機関車に初めてお目にかかった。駅の構内で国鉄のC51形式くらいの機関車が入れ換えをしていた。その機関車の軸箱からはガチャンガチャンと物凄い音を出しているし、エンジンの汚いのにはいささか落胆もした。伊藤氏の乗った17時30分発の急行列車はコーチ(座席車)2両、寝台車5両、郵便車1両の客車に対し、ディーゼル電気機関車2台を使用する贅沢さ。これなら加速を相当上げられるし、また速度も高くできるわけである。
地図を片手に街を見て回る。街の番地は実に分かり易くできている。東西にMadison Street、南北にState Streetがあり、それをXY軸にして平行した等間隔の道路があり、主要道路8つの間隔は1マイルになっている。道路の北側と東側が奇数である。例えば、6216 west 66th placeといえば、62 block(62/8マイル)西で、66 block(66/8マイル)南の点が求められる番地であり、6216は62と63との16/100の位置にあり、偶数だから西側となる。
地図なしでも番地さえ聞けば、その場所へは直ぐ自動車で行ける。要するに米国は自動車で旅行するところなのである。
2-1 ナルコ会社
ナルコとはNational Aluminate Corporationの略称で、水処理用の清缶剤、イオン交換樹脂、助燃剤等を製作しており、また鉄道やその他の会社の水処理担当者の教育にも当たっている。従業員は200人くらいで余り大きな会社とはいえないが、その建物には窓はなく地上2階、地下2階のスマートなもの。内部は全部蛍光灯で照明され、地下2階の動力室からは空気が送られ建物内が常に一定温度に保たれている。実験室内も一定温度にされているため、ここで施行した結果に対しては温度補正をする必要がないし、集めたサンプルも部屋の中へ永くおいておきさえすれば希望の温度にすることが出来る。こんな風に日本の実験室も出来ていたらと染々うらやましくも感ぜられた。
8月14日(月)からこのナルコの実験室でロバートソンという40歳ぐらいの化学者が手にとるように、石鹸硬度測定法、滴定硬度試験(エチレンヂアミン法)ペーハーPHの測定、缶用水処理の基本的問題を説明し、その後を実験してくれる。この室には5列に並んだ実験台の上に水道、ガス、電熱、蒸留水と真空線(濾すのに便利)の配管があり、試薬も自由に使用できる。室全体は蛍光灯で気持ち良く照明され、前述の通り一定温度で通風されているため、実験が常に一定の条件のもとでできるので、すべてが実に楽である。
この実験室における教授が済むと、ボイラー・ルームBoiler Roomに移る。ここでは湯あかScale(スケール)を実験室内において簡単に発生せしめ、清缶剤の効果と鉄の腐食状況を短時間に実験してみることができる。特殊な小型の実験ボイラーに鉄の棒を入れるのだが、この鉄の棒の中は中空になっていて、内側から電熱線によって熱せられる。この熱せられた鉄の周囲の水が循環して次第に濃縮され遂にスケールを鉄表面に付着せしめる。
機関車の中の水が蒸発され、スケールが煙管や缶板につく状態を調べようとするときは、この実験室のボイラーを使用して、簡単にしかも明瞭に求める結果と同じものを作って見ることができるわけで、数カ月を要する実験を数日に短縮し得ることとなる。
またこのスケール実験ボイラーの隣に、別の種類のボイラーがある。これは缶水のフォーミングFoamingを試験するもので、3本の曲がった管の中に熱せられた水は、それに続いた縦の管の中で沸騰し、水を次第に濃縮して遂にフォーミングまたはプライミングPrimingを起こすが、その状況はガラスを通して観察することもできるし、写真で撮影し色々と比較対照も可能である。このボイラー・ルームには4人の技師が昼夜勤務して実験し、毎年貴重な資料を学会に発表している。
国鉄においても本当に腰を入れて水の研究をするなら、この位の実験室ボイラーはどうしてもなくてはならない。帰国後研究所に製作方を依頼しようと考えて、ボイラー自体についての写真をもらって帰る。
米国では清缶剤の研究と水質改善の研究には清缶剤会社が本腰を入れ、資金と労力を使っており、鉄道は外部のこれらの会社からいろいろ教授されているのである。国情の違う日本で、このままの姿を当てはめることは無理かも知れないが、日本の清缶剤業者はもう少し基礎的な化学的な問題を研究してもらいたいものと、感じたのであった。
2-2 風呂敷
8月26日の土曜、科学博物館を見て帰路についたとき、シカゴの街の橋の上を歩いていたら44、5の婦人から10日ぶりに懐かしい日本語で「あなたは最近日本から来たのではありませんか?」と尋ねられ、それが奇縁となって翌日そのご家族の歓待を受けることとなった。新野庄作夫妻とその令息令嬢で、誠に感じの良い家庭。一度お会いしただけでご家族の方々と遠慮なくうち解けることができたばかりでなく、その後しばしばお訪ねしてはご馳走になってしまった。
「どうして最近日本から来たことが分かりましたか?」と尋ねると、婦人はおかしそうに「風呂敷で物を包んでいらしたから」と言われる。
実は私は米国中を風呂敷で物を包み、街を歩こうかと思っていた。その理由は米国では日本の様に通勤者が書類鞄を持って歩かないし、大部分の人は仕事を全部会社でするのでその必要がないらしい。しかし私の場合はファイルと辞書はどうしても持たねばならず、そのためやむを得ず風呂敷を持って歩いていた。
ある日一米人が私に尋ねて「それは何ですか?」、「シルクです」
彼また尋ねて「それは難しいですか Difficult?」
この「むずかしい」の意味がなかなか分からず、やっとのことで「結んだり解いたりするのが難しいのか?」との質問と分かったので、
「非常に易しいし、誠に便利なものです」と言えば彼、いとも感心する。
こんな次第であった。それからはいささか得意げに風呂敷の宣伝も兼ねて、ニューヨークでもワシントンでも風呂敷を見せて歩こうかと思っていた。
「どうでしょうか?」と新野夫妻に聞けば、
「およしなさい!」と言下! 「あまり感じの良い格好ではないでしょう」といった顔をされる。風呂敷のお陰で知遇は得たが8月27日以降は風呂敷はスーツケースの中へ姿を没してしまった。
新野氏の長男政信氏はイリノイ大学を卒業したバチェラー・オブ・アーツで28歳、人種を超越した哲学を研究し、それを実社会に自ら乗り出して検討しておられる。次男の克己氏はウィスコンシン大学を優等の成績で卒業し、特に選ばれてフィラデルフィアの医科大学で研究中の24歳の秀才、長女千枝子さんの夫君、小野田英雄氏はイタリー戦線で活躍した442部隊に属し負傷して、帰国後シカゴ大学を優秀な成績をもって卒業し、シカゴ製鉄会社へ勤務され既に月収350ドル(13万円)を得られている。誠に羨ましいほど幸福な家庭だが、それでも65歳のご主人は夫人と共に働いておられる。米国に来て日本人と日系米国人の成功している姿に接するのは誠に愉快なことであった。新野政信
お別れに際し夫人は「東京へ着いたら実弟の藤山に会ってください」と言われた。『藤山』とは名歌手の『藤山一郎』氏のことである。しかし未だこのお約束は果たしていない。
2-3 ホテル・シャーマン
どのホテルでも中位以上のものは、ベッド、椅子、テーブル、洗面所はもちろんで、電話、ラジオ、シャワーとバスが付いているし氷水も出る。エアーコンディショニング(一定の温度の空気を室の中へ流し込む装置)の設備さえあって、居心地満点である。ベッドのシーツカバーは毎日新しいものとかえられ、洗面所の中の石鹸も一寸でも使用したものはずいぶん無駄だと思うほどに次の日に真新しいものに変えられているし、洗面タオル3枚、湯上がりタオル2枚もいつも綺麗にされているので、米国中旅行するのにタオルと石鹸は全く持って歩く必要がない。
ただこのシャーマン・ホテルでもそうであったし、その後も縷々経験したことの中で一番困る点は室の外の騒音で、自動車の音と時々起こる酔っぱらったドンチャン騒ぎには夜中時々起こされ、時には2時頃まで眠れないこともあった。こんな時、それでも次の日(その日?)には仕事もあるし7時に起きねばならぬ場合は電話機の受話器を外して、交換手に
「Please call me at seven to-morrow morning.(7時に起こしてください)」
と頼んでおけば必ず翌朝、枕元のベルがけたたましく鳴って、受話器を外して耳に当てると綺麗な声で、
「Hello! Just seven.(もしもしちょうど7時です)」が聞こえる。寝ぼけ声で
「Thank you.(ありがとう)」とお礼を言うと、続けて彼女は
「Good morning! Thank you.(おはようございます)」
となかなか如才がない。ホテルでもどこでもThank youなる言葉を実によく使う。例えば「承知しました」と言うのに普通Yes sirと言わずにThank you Sirと言う。
頼めばyesかnoかを実にはっきりと言い、承知したら決して約束を破ることはしない。yesと言われたら先ず安心して大丈夫である。
商店で物を買ってもだいたいにおいて間違いはない。間違いも悪意のものは極めて希だ。
ある日ホテルへの帰途、バナナが食べたくなり、4本27セント(97円)で買い、室で開けてみれば、何と出たのは「ナッパ」。果物店で、買い手を間違えたらしい。「ナッパ」を頼んだ人も「バナナ」が飛び出して慌てたことであろう。屑籠の中へ「ナッパ」をたたきつけたら一応腹の虫はおさまった。それからは一応買った後、袋を検査する習慣をつけるきっかけになった。
これは悪意でしたわけではもちろんないのであろう。
■この著者はなかなかボキャブラリーが豊富で、こちらはしょっちゅう辞書を引いています。それでも未だ、前回の“碁盤の目の様なペーブメント”とか、今回も“フォーミングForming”と“プライミングPriming”、さらに“バチェラー・オブ・アーツ”の意味が判りません。ご存じの方のご助言をお待ちしています。
【追記1】ナルコ社についてはWikipedia英語版をご参照ください。1959年にNalco Chemical Companyと改名したとのことです。 「シャーマン」ホテルは、原著では「シェアマン」となっています。綴りは"Sherman"で、"Jazz Age Chicago"というサイト(リンク切れ)に解説があり、1925年に23階建てに増築されて第2次世界大戦後はビジネスマン等に人気を保ち1973年まで営業、1980年に取り壊されたとありますから、十中八九、これです。アルカポネも利用した有名なホテルだったようです。
風呂敷が縁で知己を得た新野夫人の名は文中にありませんが、Wikipedia日本語版の藤山一郎の項目から、それは幼少の同氏をよく浅草へ連れて行った「八千代」さんと思われます。バチェラー・オブ・アーツはコトバンクに"Bachelor of Arts"とある。2008-06-25 新野八千代
【追記2】Tadさんのコメントにもあるように、ナルコ社の広告がLocomotive Cyclopedia 1941年版に4頁にわたって存在します。その中から写真2枚を引用しておきます。まず、建物の外観で、本書図版の基となったもののようです。
次は、筆者が羨ましがった内部の作業風景です。2014-07-31
>>【シカゴの2週間(続)】
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コメント
BBS掲示板にも書きましたが,機関車の水処理は、大陸では大変重要なことです。日本のような軟水が手に入る地域においてはあまり進歩しなかった分野です。
41年版ロコサイクロの394ページに、このNalco社の建物の絵の元になったであろう写真があります。その前の数ページにはフォーミングを検知して排水する装置の紹介もあります。当時の国鉄がここまで関心があったとはとても驚きます。
1950年といえば,アメリカは高度成長の最中で、景気も良く,治安が良かった時代です。1970年頃からいろんな形で崩壊が始まりました。それは都会から始まったので、田舎の方ではしばらくは古きよき時代のアメリカが1980年代まで存在していました。今は日本とそう変わりませんね。
ホテルでの電話オペレータの受け答えが興味深いですね。今では言わない言い方です。
当時日本では学士は少なく、特に国鉄のような学歴重視の職場では学士であるだけで特別扱いされていたようです。そのためバチェラー・オブ・アーツ(BA)という語には敏感になったのでしょう。
投稿: Tad | 2006/01/23 18:26