国鉄技師訪米記2:羽田よりシカゴまで
melma! back issue 2006/01/22 Vol.164 total 269 copies
The book of a JNR engineer's travels around the USA in 1950, part 2
このテキストの経緯、詳細については、第1回をご覧ください。
1 羽田よりシカゴまで
慌ただしい準備に追われているうちにいよいよ渡米の日、8月9日(水)である。待ちかねた修学旅行の朝のような、すがすがしい、そして緊張した気分で眼がさめる。その日の日記には次のように書いてある。
「7時起床、ゆっくり朝食、午前中はのんびりと風呂に入ったり、子等と遊んだりする。出張前にのんびりしたのは初めての経験だ。昼食をすませて12時40分家を出る。本庁内の挨拶回りから17時半の送別会に送られ、18時出発。羽田に19時着。案内所、Informationへ行くも余り早いので相手がびっくりする。出国手続き、税関手続き、手荷物の依頼を済ませる。飛行場の見送りは制限されているので、予め米軍の証明書をもらわねばならない。証明書をもらって見送りに来てくれた人々は家族の他に室の人等12名であった。飛行機はマニラ始発のノースウエスト機であるが、天候不良で2時間遅れている。家族と少数の室の人以外には帰ってもらう。23時50分滑走……」
飛行場の案内書には「飛行機の発時刻の20分前には飛行場に来てもらいたい」としてあったが、余り遅く東京を出発すると本庁の人にも迷惑を掛けるし、また飛行場までの途中で何か自動車故障でもあったのでは困ると考えて早めに出かけた。しかし、発時刻の4時間も前に来て、荷物を依頼する旅客は珍しかったので案内人はひどく驚いたらしい。
23時50分に滑走したボーイング4発20人乗りの上海号The Shanghaiはエンジンの爆音すさまじく数十秒にして飛行場を後にする。待合室の前に一団となって手を振る見送りの人々の姿が、電灯ではっきり浮かび上がって見える。小さな手を懸命に振る7つと5つの子供がひどく印象深く頭に残り何時までも消えない。やはり私も世間並みの子煩悩な親なのであろうか。
エンジンの調子は好調、まず搭乗員から救命具の使い方の説明がある。客席は20だが、旅客は私の他に、東洋リノリューム会社の増田さん、GHQにいたメルニックさん、米陸軍少佐と40歳位の米婦人で、たったの5人、これに対する乗務員は運転士2人、エアガール1人、案内人1人、これでは余り儲かるまいと余計なことを心配する。
羽田から東京までの京浜地帯の夜景は実に見事なもので、青黒い静かな東京湾の西側に点々と火の粉を撒き散らしたように見えるたくさんの電灯、大空の所々ほのかに白く見える雲、あとは星、星、空一面は星が静かに覆っている。7年前にジャバ【ジャワのことか?】に行く途中、江ノ島、富士山、淡路島、瀬戸内海の青と緑の交錯した昼の美景に見とれたのであったが、日本の夜景もまたすばらしい美しさを持っている。
千葉付近から陸地の上に出たらしい、うとうとと眠くなる。
2時間ばかり経った頃、機はぐっと高度を下げ始めた。そのためか耳鳴りがひどい。
きれいに照らし出された滑走路に着陸したのが1時50分、「軍の指令ですから、皆さんお眠いでしょうが降りてください」と言われて、ともあれ機を降りて、深夜の待合室の方へ歩いていくとMISAWA AIR BASEと標識が出ている。
有名な古間木飛行場で、終戦後B29の飛行場として我々陸上輸送担当者にはなじみの深い名であると同時に、随分辛い思い出の場所でもある。輸送量の余り大きくない東北線に対して、山のごとき軍需品(その大部分は飛行場建設資材)の輸送が負荷され、当時、東北線を走る機関車が不良であったことも手伝い、約2年の間、苦労に苦労を重ねた古間木輸送は一寸忘れられない。
待合所でおいしいお菓子を食べ、コカコラ【原文のまま】を飲みながら一寸机の横を見ると、Why not write a letter home now?(なぜ家へ便りをしないのですか?)と掲示が出ている。ここはノースウエスト機のような民間機の降りることは稀で、大部分が軍用機なのではあるまいか。「飲んでいる間に、心配して待っている家族に手紙一本出したらいかがですか」という意味であろう。
3時5分、飛行機は滑走すると(着陸する前にも)客席の前方に、No Smoking, Fasten Seat Belt(禁煙! シートのベルトを締めてください)とランプで照らし出される。同時に同じことがスピーカーから放送される。機が上空に達するとこのランプは消えて喫煙は自由になる。
機の中は上着を脱ごうか脱ぐまいかと迷う程度の気温(約セ氏20度)に調節され、通風は頭の上の小さな通風窓を旅客が勝手に調節することによって通風の方向と同時に通風量も自由に変えられる。腰掛はリクライニングシートでボタンを押せば寝台になるし、頭の上には自分の前だけしか照らさぬようにフードされた照明があり、乗客が自由に点滅できる。そのため一つの席で照明を使用しても隣へは照明が行かないので、隣に気兼ねしながら点灯する必要はない。機体は防音装置で被われているが、ズズズズという爆音は入ってくる。
しかしその爆音にも慣れてくると、普通の大きさの声で自由に会話が交わされる。エアガールが親切に世話を焼き、夜になれば、毛布を掛けシートの下の足台を延ばしたりしてくれて「用事があればこのボタンを押してください」とボタンを指差しながら説明してくれる。上着とネクタイをとり毛布を腹の上にあて、照明を消し寝台に身体を沈めて目を閉じるとこれが北海の空を飛ぶ飛行機の中かと妙に感傷的な気分になる。だいぶ気持ち良く寝たらしい。
7時、もう空はすっかり明るい。先ず最初に洗面所へ。便所は化学薬品で処理されるらしく、This Room not be occupied during take off and landing(この便所は着陸と離陸の時は使用しないで下さい)、Chemical Toilet, Does not require flushing(化学薬品処理便所です。水洗する必要はありません)と掲示されている。洗面器はきれいに磨かれたジュラルミン製で、石鹸とタオルとが置いてある。コーヒーを飲みながら外の景色を眺めると、まったく綿といいたい様な、ふっくらした真っ白な雲が西へ西へと飛んで行く。エアポケットもなければ動揺もないし、飛行機が東方へ飛んでいる感じさえしない。
エアガールが、「朝食はコーヒーにしますか紅茶にしますか?」と聞くので、「コーヒー」と答えると、プラスチックのお盆の上にパン、ベーコン、オレンジジュース、ホットケーキ、果物をのせて座席の所まで持ってきてくれる。お盆の下へは柔らかい枕を置いて食べよくしてくれるし、なかなか如才がない。しかしせっかくのご馳走も運動不足で食欲がないのか半分も食べられない。雲と海と空の他は何も見えない北海の空を東へ東へと進み日付変更線を越すと10日(木)の朝から、また9日の朝へと逆戻りで、1950年8月9日という日を2日分体験することになる。東京で合わせた時計は7時であるが、もう10時頃になるのではあるまいか。
雲のすき間から紺碧の海に浮かんだ黒い島が見える。エアガールに島の名を尋ねると「アッツ島」と答える。山頂は8月というに白い雪を頂いている。
感無量!! 書く言葉がない!!
東京からの経過時間を簡単に知ることができるように、自分の時計は進めずに東京時間のままにしておくことにした。
三沢飛行場を出発してから8時間35分で11時40分にアッツ島の東隣のシェミヤShemya島に着く。8月の空から小雪混じりの雨が降ってきて、寒い、寒い、実に寒い。見れば地上の人々は厚い毛皮の外套に身をくるみ、ポケットに手を突っ込んでいる。バスで10分位かかって休憩室に案内されると、そこには昼食としてコーヒー、サンドウィッチが用意され、エアガールが地上でもサービスしてくれる。
尾籠な話で申し訳ないが、ここの大便所の入り口に扉が付いていないのにはいささかびっくりした。もちろん、用をたすわけにも行かないので、機上に戻るまで我慢してしまった。その後、ニューヨークでもワシントンでも時々扉の付いていない大便所を見たし、その中で平気で用をたしている姿は、日本便所の様にしゃがまずにズボンをもものところで支え腰掛けているので別に問題とはならないことを発見した。
飛行機のタイヤを取り替えるために相当時間をつぶし、やっと14時58分滑走離陸、シェミヤからアリューシャン列島沿いにダッチハーバーからアラスカの中心アンカレッジに向かう。いささかくたびれたし、眠くもある。この間7時間22分で、夕食を機上でとる。朝食と同じようにプラスチックのお盆の上にのせられ肉が一皿付いている他は朝食と大体同じで、狭い料理場で作るご馳走にしては気がきいている。ただしコーヒーと肉とを温めれば良いように全て地上で準備してくるものらしい。
機の左内側のエンジンから潤滑油がたれて、それが翼の上に伝わり、しばらくすると翼の後方から飛び散っているのが夕陽に照らし出されて余り良い気持ちではない。なんと尋ねたらよいかと迷っている内、前の席の婦人が機関士をつかまえ、指差して「あの油の漏れ出るのは事故ではないか?」と聞いていたが、「別に事故ではない」と言われて安心していた。それで私もどうやら安心する。
東京時間22時10分アラスカのアンカレッジに着く。午前4時頃であろう。査証官の査証を受けるが、実に親切な係官で、米国における予定を詳しく尋ねた後に「Jan. 1, 1950まで滞米可」とサインしてくれる。「1950年は誤りであろう、1951年にしてもらいたい」と言えば、大きな声で笑いながら謝り、すぐに0の所を1と直す。なかなか愛嬌のある御老人であった。ここは米国領土で、西から入国する外国人の関門というわけであるが、手続きの簡単なのと、係官の態度の親切な点は気持ちのよい思い出の一つである。
東京時間23時50分アンカレッジを後にする。乗客は19人になっているし、シートの数も32に増加している。シートの位置を変えて増設することにより20名分から32名分にしかも短時間に増加できるらしい。アンカレッジからシアトル【原文:シヤトル】までの7時間12分はアラスカの未開地とカナダの森林の上を飛ぶ。薄赤い空をバックにした山々が、青黒い輪郭をはっきり見せている。頭にはもちろん雪をのせて、人家はほとんど見ることができない。水、雪、山の連続した冷たい感じのする景色であった。
東京時間7時10分(当地の14時10分)シアトル着。税関が荷物の推定金額とお土産の種類を書き込んだ入国書類を読みながら、荷物の調査にかかる。シカゴで分析してもらう予定の梅小路機関区の水(2リットル入りのビン)を詳細に見た他は余りにも簡単な調査で、わずか3分ぐらいで済んでしまう。
シカゴの知人を介して紹介して戴いたバーガーさん一家に迎えられ、滞米最初の日を米人宅の二階で過ごす。ワシントン大学において科学を研究しているバーガーさんの息子さんの案内で、シアトル市の夜景見物のためのドライブをする。先ずワシントン大学を見て、静かに落ち着いた綺麗な街を南方へ進むとコンクリートのブロックを水上に浮かべた≪浮き橋≫Floating Bridgeがある。運転しながら、バーガーさんはゆっくりと明瞭な英語で説明してくれる。初めて自動車の中で食べたアイスクリームの味も忘れられない。
帰国後GHQ-CTS【Civil Transportation Section(民間輸送局)】でシャングノン【シャグノン?】氏に「三ヶ月の米国旅行で好きな綺麗な街はどこだったか?」と尋ねられたとき、第一はシャール、第二はワシントン」と答えればシャングノン氏も「自分もそう思う」と言われた。米国ではSeattleをシアトルとは言わずシャールと発音する。シャールの綺麗さは定評があるらしい。
さて、これからシカゴまで飛行機で行くか、汽車で行くかが問題となる。もちろん、日本出発前に定めてはおいたが、色々検討した結果飛行機を選んだのである。それは飛行機で行く方が安いし早いからで、シアトル-シカゴの運賃と所要時間を比較すると、
運 賃 時 間
汽 車 81ドル25セント 43時間
飛行機 113ドル75セント 7時間20分
バ ス 36ドル85セント 74時間15分となり、これをグラフにすると図の様になる。旅客の気持ちからいえば、早く走る乗り物へは高い運賃を払うのは当然と考えるし、安い運賃ならば所要時間が長くなっても仕方がないと考えるであろう。その旅客希望曲線は図の細線の様にハイパボリックにならねばならない。汽車はこの曲線から非常に離れ、もう少し早く走るか、あるいは運賃を下げないとこの曲線にはのらない。急ぐ旅客は飛行機に乗るし、安く行こうとする旅客はバスを選ぶであろう。そして汽車といえばゆっくり楽しみながら旅行するお客だけが乗ることになる。私の場合は飛行機にすると、日本からのラウンドトリップRound Tripで運賃の一割を引いてくれるのに対し、汽車の方は食費、寝台料、チップを払わねばならず割高になるので、シカゴまで飛行機を選んだのであった。しかし研究課題の相手が汽車であったので、そうやたらに飛行機に乗ってしまったのでは何にもならないし、それにシカゴから先の予定を日本出発前に決定することができなかったので、飛行機の切符はシカゴまでとしておいた。
静かな気持ちの良いバーガーさんのお宅で目が覚めたのが6時、窓を開けると緑の庭園から吹き込む冷たい風がパジャマの中までしみ込んでくる。バーガー氏と共にとる食事は、台所であった。米国では家族的な食事をよく台所で済ますので、台所は綺麗にされてテーブルクロスを掛けた食事用の机と椅子とがおいてある。パン、卵、オレンジジュース、コーヒーと簡単であるが気兼ねなくおいしく食べられる。母が絹地に描いてくれた桜の画を差し上げると、「すばらしい! きれいです! Wonderful! Beautiful!」の連続、大変喜び、婦人と令嬢に私からの説明をそのまま繰り返して話していた。
バーガーさんの自動車で飛行場に送られて、シカゴ行きの飛行機に乗ったのが標準時間の9時40分、デイライト・セイビング・タイムDaylight Saving Timeで8時40分。米国では日本のサマータイム【原文にはサンマータイム】に相当するものをデイライト・セイビング・タイム(略称D.S.T.)といい、標準時間より1時間早くしている点は日本と同じだが、飛行機の発着、汽車の発着には標準時間を使い、また都市によってはD.S.T.を使用しない場合もあるから、よほど気を付けないと、時間でいろいろの失敗を起こす。西部(Western Time)、山岳部(Mountain Time)、中部(Central Time)、東部(Eastern Time)と場所的に一時間ずつ差のある四種の時刻があり、それにD.S.T.が加わるので、Western Standard Time(西部の標準時間)、Central Daylight Time(中部のサマータイム)などとなかなかややこしい。それで時間を言われたときには場所がどこかを先ず知り標準時間かサマータイムかを確かめねばならない。すなわち次の通り8種の時間がある。
東部の標準時=10時とすれば サマータイム= 9時
中部 = 9時 = 8時
山岳部 = 8時 = 7時
西部 = 7時 = 6時
飛行機はノースウエスト会社ご自慢のストラトクルーザーStratocruiser(空飛ぶホテル)、体の長さ 110ft.(34m)、翼の長さ141ft.(43m)、重量145,000lb.(66ton)、速さ340mph(550km/h)、旅客の収容能力75人、設備は実に完備されロンヂとバーまでついている。
カスケード【原文はキアスケード】山脈にかかる頃、快晴の空の北側にべーカー山が見え、コロンビア河が茶褐色の広野に長いうねうねした体を横たえている。
50分の飛行の後、スポカーンで30分ほど休み、東へロッキー山脈の横断にかかる。ロッキーの山々は所々白い雪を残して、多数の小さな湖水をおき、幾重にも並んだ濃緑色のうねが南から北へと限りなく続いて、いかにも米国の大分水嶺らしい。静かに飛ぶストラトクルーザーのそばを雲が時々素晴らしい速度で後方に飛んでいく。モンタナの大広原と巨大な流れミシシッピー河はその中、特に印象の濃い思い出であった。ダコタ、ミネソタ、アイオワ、ウイスコンシン、イリノイと州は変わるが、その間1,500kmを開墾された畑と、碁盤の目の様なペーブメント【pavement:舗装道路】を持つ街が時々見えるだけで、人工の美しさというよりは人工の偉大さに見とれる。
セントポール【原文にはセンポール】に一寸着陸してシカゴに着いたのは、17時14分で、シアトルから飛行時間5時間52分、2カ所の停留時間も入れて3,700kmの間を7時間18分で飛んだことになる。飛行場には東京から連絡済みのナルコNalco会社のワグラーさんがこられていた。全く、一面識もない間柄ではあったが、先方ではストラトクルーザーから降りてきた50人ばかりの旅客の中から唯一の日本人を探し出すのは容易であったと見え、すぐ「あなたは福島さんではありませんか」と声を掛けてくれる。停車場会社の伊藤滋氏(筆者の義兄)が来ているはずと思い、待合所を探したが見あたらず、やむをえずワグラー氏が予約してくれたシャーマン・ホテルへ向かう。
羽田からシカゴまでの飛行時間のみの計は31時間1分であった。東京から急行で西下すれば鹿児島ぐらいのところになろう。時間的に考えれば、飛行機で行く東京-シカゴ間と、汽車で行く東京-鹿児島間とが同じ距離となるわけで、今さらの如く文明の利器の大きさを感じた。
■羽田からシアトルまで乗ったノースウエスト航空の飛行機がよく判りません。「ボーイング4発20人乗りの上海号The Shanghai」とあるだけです。Wikipedia日本語版「ノースウエスト航空」で当時の航空事情が判ります。客席数が32になった等という記述からボーイング307の可能性が高いものの、購入した航空会社にノースウエストの名がありません。シアトルからシカゴまで乗ったストラトクルーザーはボーイング377でしょう。
「古間木(ふるまき)飛行場」は「三沢飛行場」のことのようですが、そのWikipedia日本語版には記述がありません。「三沢駅」の項には1961年に古間木駅から改称した旨、記されています。2008-06-26
| 固定リンク
「国鉄技師訪米記」カテゴリの記事
- 国鉄技師訪米記30:米国鉄道の機関車(2012.04.15)
- 国鉄技師訪米記29:鉄道における水処理(下)(2012.04.14)
- 鉄道車両技師 福島善清さん(2018.05.13)
- 国鉄技師訪米記28:チップと土産と対日感情(2006.10.27)
- 国鉄技師訪米記27:サンフランシスコ(続)(2006.10.13)
コメント