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2006/02/06

国鉄技師訪米記12:シカゴよりニューヨークへ

米国に来てから18日目に初めて優等列車に乗ったので……
melma! back issue 2006/01/06 Vol.174 total 272 copies
The book of a JNR engineer's travels around the USA in 1950, part 12

このテキストの経緯と詳細については、第1回をご覧ください。

3 シカゴよりニューヨークへ

 8月28日(日)朝、ワグラーさんの2階でいつもの様に目を覚まし、荷物を片付けてインディアナポリスへ向かうつもりでナルコ会社へ出かけたが、そこのニューヨーク・セントラルNew York Central鉄道支社から返事があり、「福島はSCAPの許可を得ていないので、当方の業務機関を見せるわけには行かない」とのこと。
 仕方なく予定を変更し、夜行列車でニューヨークへ出発することとする。
 電話でニューヨーク・セントラル鉄道の営業事務所を呼び出し、切符を予約して、エングラウッド(シカゴの南部駅)から列車に乗り込む。旅費節約のため寝台をとらず、リクライニングシートで頑張ることにする。
 961マイルをチケット35ドル04セント、プルマン1ドル15セント、計36ドル19セントを払う。1km約8円となるから日本の10倍である。米国に来て18日目に初めて優等列車に乗ったので、車中の全てが珍しい。

 窓は2重になり1/4インチ(6mm)のガラスが1/4インチの空間をおいて2枚あり、両方共に開け閉めはできない。車内はエアコンディショニング装置が完備され、この日は8月のもの凄い直射日光が線路を照らしていたが、車内に入ると全く涼しく、上着を着ていてもちょうど良い温度に常に調節されている。清掃がよいのか、空気が清浄なのか、窓ガラスは綺麗な姿をしていた。

 一般的に列車回数が非常に少なく、この幹線でも、国鉄の単線区間よりも少ないかもしれない。
 平面交差は実に多く、シカゴの街中でさえ複線が市電と交わっている。また複々線同士という例もあった。交差通過時には、列車外ではもの凄い音が聞こえるけれども、車の中では殆ど聞き取れない。それは窓ガラスが2重で、側と天井に2枚のジュラルミンが2インチの間隔でおかれ、中に防熱防音材が入っているし、床も2重底になっていて、外部と完全に絶縁されているからである。
 タイト・カプラーを採用しているため前後の衝撃が非常に少ない。日本の国鉄電車に採用されているものと型は違うけれども作用は似ている。ただ、空気ホースは別に連絡しなければならない。

 客車の前後両端に洗面所がある。MENと表示された戸を開けると6人ほどの室があり、洗面器と椅子が備えられ、ここは喫煙自由である。一般の席は禁煙となっている。この洗面所の奥にまた戸が付いていて、その中の便所は恐ろしく狭い。
 これら2つの室が日本の洗面所および便所に相当する。しかし遙かに面積にゆとりがある。男子用の反対側には婦人用の化粧室が設けられている。要するに座席の面積に比較して、それ以外が日本よりかなり大きいし、喫煙室を設けている点にも特徴がある。このことは旅行を楽しいものにしてくれる一つの要点だと思う。煙草の嫌いな私にとっては何より愉快なことであった。
 車内灯は非常に明るく、特殊の用途を除いて全部蛍光灯が使用されている。蛍光灯は米国の一般建物にも普及し、フィラメント電球は現在では次第に影を没しつつある。確かに蛍光灯は非常に感じがよい。

 夕方になると、黒人のボーイがたくさんの枕を担いで、「枕です。ニューヨークまで50セント」と触れ回る。たいていの人が借りているので私も倣う。枕は50cmもある大きなもので、ふわふわした柔らかみを持っている。これを首や腰などに当ててみた後、一番楽であった背中に固定する。日本円で180円はあまり安くないかもしれないが、米国では安値感がある寝台料金10ドルに比較してみて、問題にならぬ程低廉なものである。
 乗客数は90%の乗車で、先ず上の部であったろう。初めてのせいか、残念ながら睡眠が十分に取れなかった。
 列車は朝靄(もや)をついてニューヨーク市内へ。マンハッタン島に入ると直ぐに地下にもぐり、そのまま地下駅へと到着する。

 先ず駅の食堂で朝食としてドーナッツとコーヒーを済ませ、まだ決めていない宿泊先等の相談に乗ってもらおうと、シカゴで紹介してもらったトランスコンチネンタル・マーカンタイル会社Transcontinental Mercantile Corp.の山本氏と岡田氏を訪ねるべく、タクシーを拾う。事務所で会った両氏は「エンパイア・ホテルが良いでしょう」とのこと。
 電話で同ホテルを呼び出して、
「バスまたはシャワー付の独り室が空いていますか?」、「Yes」
「室代はいくら?」、「上の方で内側の静かな室は5ドルです」
「も少し安い室はありませんか?」、「11階の外側で良ければ4ドルです」
「では、それで頼む」
 ずいぶんケチな会話だが、1日1ドルの相違は決して馬鹿にできない。
ホテルに着くと11階の57号室に案内してくれる。氷水は出ないが、バス、シャワー共に付属しており、室の広さもちょうど具合がよい。

 先ず関係箇所へ住所変更の手紙を出し、42番街のGHQ-SCAP貿易事務所Foreign Trade Officeへ出かける。この事務所は東京のGHQの出先機関ともいうべきもので、日本から来る旅行者の世話をする一方、日本商品の紹介、米国対日本の貿易の手引きを一手に引き受け、なかなか忙しそうである。
 所長のバーバーさんは休暇で不在のため、次長のヘンリー女史が会ってくれる。親切な人で私の予定を聞くと直ぐ関係箇所への連絡の手紙を作り、一番先に急ぐニューヨーク・セントラル鉄道へは自分自身でその場で社長に電話連絡し、相手の都合を聞いてくれる。先方は木曜日の午前に来いという。米国を離れるまでの詳細な予定を明日持参することを約し、お世話になったお礼を述べて辞し、ホテルに帰る。
 列車内では完全な睡眠が取れなかったし、急にニューヨークの騒音の中に入り込んだためもあろうか、ひどく体が疲れ、初めての午睡をとる。ブロードウェイに沿ったこのホテルもかなり騒々しい。その騒音の大部分は自動車の通る音である。米国から自動車が消えてなくなるまではこの都市の悲劇的な騒音は無くならないだろうと思う。

鉄道関係以外も「全文読みたい」というご意見を多数いただきましたので、シカゴからニューヨークへ向かう時点に遡ってお伝えすることにしました。話が少々前後しますが、辻褄は目次をご参照ください。
 ところで私は完全な戦後生まれですから、GHQ、SCAP、CTSなどと言われてもピンと来ませんが、当時はこれで誰にでも理解できたのでしょう。調べると「GHQ-SCAP」は、General Headquarters/ Supreme Commander for the Allied Powersの略で、「連合国軍 最高司令官 総司令部」と訳されています。日本の占領統治のため1945年の10月2日から1952年4月28日まで存在し、東京・日比谷の第一生命相互ビル(現、DNタワー21、第一・農中ビル)を接収、本部としていました。
 本誌164号に出てくるGHQ-CTSの「シャングノン氏」は、下山事件(1949年7月5-6日発生)で有名なシャグノン中佐(のちに大佐)と同一人物の可能性が高いと思います。CTSはCivil Transportation Section(民間輸送局)の略で、国鉄の基本的な政策や運営に関し勧告と指示を与えていたGHQ-SCAPの一部局。呉服橋ガード手前北側の元朝鮮銀行ビル(現、新大手町ビル)にあったとのことです。
 この間、朝鮮動乱が1950年6月25日に勃発し1953年まで続くなど、著者の渡米は世界情勢上、微妙に時期に当たっていた様です。
 【Wikipedia日本語版 http://ja.wikipedia.org/wiki/GHQ 等を参照】

>>【ニューヨークの印象

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