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2006/02/13

国鉄技師訪米記17:再びシカゴへ(続)

ニューヨーク・セントラル鉄道の最も水質の悪いインディアナポリスへ
melma! back issue 2006/02/13 Vol.179 total 273 copies
The book of a JNR engineer's travels around the USA in 1950, part 17

このテキストの経緯と詳細については、第1回をご覧ください。

10 再びシカゴへ

10-3 ストックヤード

「世界的に有名なストックヤードはシカゴを訪れた人が必ず行く」という人と、反対に「あんな残忍な、不愉快なところへは行かない方がよいでしょう」と注意する人とがあった。「有名だ」と聞くと行きたくなるし、「行くな」と言われると意地でも見たくなる。
 10月23日、話の種にと出かけることにした。豚の一群が一個所に追い込まれ、コンベアに尻尾を挟まれ、空中に吊り上げられたところで咽喉をつかれて殺され、蒸気で蒸され、皮を剥かれ、肉を切られて、ハム、ベーコン、その他になるまで流れ作業式に機械的に進んでいく。
 別に残忍な感じもなければ、不愉快な憶い出ともならなかったし、無神経なのかも知れないが、見た後の夕食に食べた牛肉の味も別に不味くもなかった。牛を殺すところは相当酷たらしいそうだが、幸か不幸かそこだけは見ずに帰ってきてしまった。豚の咽喉をつく人、牛の皮をむく人には全て黒人が当たっているが、何か米国国情の一面を見せ付けられるような気持ちであった。

10-4 シカゴ大学

Chicago  10月5日の日曜日に小野田さんの案内でシカゴ大学へ行く。シカゴの南部の静かな公園に近く、綺麗な大学で学生の数は1万人あるという。米国の大学のほとんど総てにフットボールのチームがあって、選手が母校の代表的存在であるのに対し、この大学は公式試合を禁じ、競技場もなく、もちろん選手もいないとのこと。
 その理由は、若くして学長についた現総長が「学生はスポーツが目的ではない。すべからく学につくべし」と主張しているからだという。事実この大学の優等生は他に比較して断然優れていることは全ての人が認めているようだ。

 小野田さんもここを卒業して現在、シカゴの製鉄所に勤務されておられる。氏によると、学生の大部分はアルバイトをやっているし、父兄から学資全部をもらう者は人数にして15%ぐらいしかいないであろうとのこと。支出は食事付きの下宿代1週17ドル(6千円)くらいが普通だと聞いて、アルバイトの額に比して決して高いものでないことを知った。日曜日の図書館の中で30人ぐらいの学生が一心に勉強している姿を見て、米国大学生の真面目さの一面に触れることができた。

10-5 自動洗濯屋

 洗濯機械は各家庭で総て持っているわけでもない。持たない家庭では、アパートの地下室に設備されいるものを使用するか、あるいはこの自動洗濯屋Launderetteを利用する。
2  汚れ物を一包み持ってきてこの機械の中に入れて5セント払うと自動的に、石鹸洗い、水洗い、絞りをやってくれ、約1時間で完了するから、その間、別のところで用をたして、その後に寄れば、あとはアイロンを掛けるだけになって洗濯は終わっている。もちろん色の染み出るものは別々にする必要はあるが、相当量同時に投入できるから至極便利なものである。
 日本にもこんな店ができて良さそうに思う。主婦から洗濯の労苦を除くことができさえしたならば、かなり時間の余裕もできるし、その時間を他の方面に向けられるだけでも、かなりの生活程度の向上が期待できるのではあるまいか。

10-6 ハキーゲーム

 10月19日、ニューヨーク・セントラル鉄道の最も水質の悪いインディアナポリスへ行き、缶水処理について検討した後、夕方時頃案内してくれたウィンタースタイン氏が、「今晩ハキーゲームを見ますか?」というので、「それは何ですか?」と応える。氏は驚いた顔をして「君はハキーゲームを知らないのか?」、「見たことも聞いたこともない」、「今晩、見せてあげよう」
 夕食後案内してくれたところは、アイスホッケーの夜間試合であった。Hockeyを「ハキー」と発音する。英語が分からなかったというのも恥ずかしかったので、初めて見たような顔をしておいた。
 職業チームだけあって、そのスピードと好技とには目を見張った。インディアナポリス対シンシナティの戦で、地元の声援空しくインディアナポリス軍は0対1で破れた。入場料2ドル50セント(9百円)は決して安くはないが、試合の面白さは見ていて気持ちの良いものであった。
 試合に先立ち真っ暗な会場の中で、順番に選手名と背番号がアナウンスされる。するとその選手が氷の上を滑りながら右手を上げて挨拶する。スポットライトは次々に選手の体をつかまえてスムースな動きを見せてくれる。その度に観覧席からは拍手が湧く。レビューでも見ているような印象を残してくれた。

黒人の社会的地位に関しては、キング牧師が凶弾に倒れたのが1964年ですから、1950年当時はまだまだ低く、著者が違和感を持つ場面に遭遇されたことも多々あったことでしょう。

 洗濯機がアメリカで発明されたのは1907年、普及し出したのが1930年頃とのことです。日本では1960年頃に一般家庭で使われ出したので、1950年といえば、未だ見たこともないという人が多かったはずです。それに最初は脱水が手回しローラーによる一槽式でした。遠心脱水機を別とした二槽式が1970年代で、文中にあるような乾燥まで行う全自動式は1980年代以降となります。コインランドリーは1970年代以降でしょうか。

 プロの北米アイスホッケー・リーグについては全く知識がないのですが、NHL(National Hockey League)が1917年に開始された様です。サイト http://www.nhl.com/ のチーム名にインディアナポリスもシンシナティも無いのは、一体どういうことなのでしょう。

>>【オマハにて

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