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2006/04/27

国鉄技師訪米記21:サンフランシスコ

ロサンゼルスよりサンフランシスコまでSPの誇るデイライト
melma! back issue 2006/04/26 Vol.184 total 285 copies
The book of a JNR engineer's travels around the USA in 1950, part 21

このテキストの経緯と詳細については、第1回をご覧ください。

17 サンフランシスコ

 11月13日(日)朝、ロサンゼルスよりサンフランシスコまでサザン・パシフィックSouthern Pacific鉄道の誇るデイライト・エクスプレスで行く。
 簡単な地図の入った沿線案内書をくれる。駅名の横にその地の名勝、名産を要領よく書き並べ、発着時間をも入れてあるので非常に便利に使える。
 サンフランシスコに着いたのは18時で、駅にはサザン【原文はサゥザン】・パシフィック鉄道のロンゴ氏とナルコ会社のザーム氏が迎えてくれ、プラザ・ホテルに案内してくれる。大きな室に2つベッドがある。シングル・ルームは満員だというので仕方がない。この2人室も1人で入れば5ドル、2人ならば7ドル50セントとのこと。便利なところだし、住み心地も良さそうなので出帆までの12日間をここと決める。

17-1 サザン・パシフィック鉄道

 営業距離は8,142マイル、機関車両数1,400両のかなり大きな鉄道で、西部から南東部へ走る主要ルートを受け持っている。11月14日より主として缶用水処理につき見せてもらう。缶修理課長General Boiler Inspectorのロンゴ氏が多忙な職務を持ちながら付きっきりで案内してくれるには感謝の外なかった。
 まずフェアーフィールド機関区へ。ここではナルコ・ボールをテンダーに投入している。その個数は炭水手詰所の中に、車両局長名で掲示があって「1仕業につき本線用機関車は5個、入換機関車は3個」とされている。
 ロンゴ氏は「このボールの所要個数はナルコの駐在員ザーム氏が定める。氏は各給水箇所の水と缶水とを時々測定して、所要量を検討している」と述べ、鉄道会社と清缶剤会社の緊密な連絡の必要性を説くのであった。

 次の日はサクラメント工場へ行き工場内を見せていただいた後、車両試験室に案内される。ここは水の分析と缶水処理を受け持っているが、ボルチモア・オハイオ鉄道の場合と同じく有機物の分析を行っていなかった。蒸気機関車は1,000両以上あるけれども分析の係は3人(1人は兼務)しかいない。
 水処理の仕事はマスターメカニックに属しているが、水分析は施設課の方にも報告する様である。硬度決定は石鹸硬度を用いていて、今流行のエチレンヂアミンを利用する滴定法Titration Testではない。分析法と分析の時期についての車両局長達示を見せて説明してくれる。

 11月16日、ルーズビル機関区へ。ここは清缶剤を使用していない。缶の中はスケールだらけで非常に汚い。「なぜ清缶剤を使用しないのか?」と尋ねれば、区長曰く「マスターメカニックが買ってくれない」と。しかし据付缶にはよく使われていると洗缶中の缶の中を見せてくれる。
 この日はストクトンのCTC通信施設を見学してサンフランシスコに帰る。

 11月17日は本社で車両局長の達示Mechanical Circleを見せてもらい、吹き出し弁(ブローオフ・コック)の図面を検討する。
 午後はデイビュロン機関区へ。この地を受け持っているマスターメカニックのハウセン氏は「5年前までは缶の腐食に悩まされていたが、ナルコ・ボールを使用してからこの欠点は全くなくなり、洗缶の時も楽だし、工場で修理する件数も非常に減少した」とナルコの宣伝をする。
 5年前の腐食した缶板を示しながら現状を詳細に説明してくれるのを聞けば事実、大いに効果があるらしい。この機関区にはタイヤレース【旋盤】が2台あり、タイヤプレス【圧入機】も施設され、1月に67軸を取り替えているというから、日本式にいえば工場の一職場ともいうべきものであろう。

 次の週はサンフランシスコの対岸オークランド機関区へ行き、洗缶を見せてもらう。中々エネルギーの利用は上手である。詳細は後述。
 レッガーウッドタイヤなるものを見せてもらう。これは制輪子を取り去り、そこにタイヤカッターをはめて、ブレーキをかけたまま機関車をロープで動かせば、タイヤの表面がカッターで削られる。タイヤレースにかけるには車輪を外さねばならないが、これはその必要がない。米国は人件費が高いから、解体に要する人工を減少することはかなりの利益になるであろう。日本で施行して有利になるか否かは検討してみなければならない。

17-2 世界一の吊り橋                                                        

 サンフランシスコの北と東に2つの大吊橋がある。北を金門橋Golden Gate Bridge、東をフランシスコ湾橋San Francisco Bay Bridgeという。1930年に完成した金門橋は世界最大の吊り橋で、支間実に1,280mもある。
 吊り橋を支える2本のロープの実物が橋の下に陳列されている。直径32インチ(81cm)もある巨大さで、中に太さ5番線くらいの鋼線が27,252本あり、総延長8万マイル、重さ23,250トンに達するという。
 橋の下はどんな商船、軍艦でも通過できるし、船の上から夜の橋を見ると、赤いランプが一列に点灯し、海の上に一面に広がって何か威圧される様な気がする。
 東のサンフランシスコ湾橋は上下2段になり、上の階が軽量の乗用自動車、タクシー用で、下階はバス、トラックが走ることになっている。

1c  通過する自動車1台、1回につき通行料を取って建設費の償却とその保守費に当てている。通行料金は橋によって異なり、サンフランシスコ湾橋は25セント、金門橋は50セントであった。米国のたいていの橋梁はかくの如く通行料金をとり、その支払いの関所にはSTOP PAY TOLL (停車して通行税を支払ってください)と掲示が出ている。ここには1台ずつしか通れない関門があり、車を止めて係の人に現金を支払う。定期的に運行するバスは会社からまとめて支払うのであろうか、一片の紙を渡していた。

17-3 モーテル

 11月15日のこと、サクラメントへ行き、ストクトン経由でサンフランシスコへ帰ろうとしたところ、夜中に凄い風雨。急遽予定を変更してストクトン行きは次の日とし、サクラメントに泊まることとした。一行は私の他にロンゴ氏とザーム氏で、市内にホテルを探したけれども見つからず、モーテル【原文はモテル】に泊まる。
 モーテルMotelとはMotor Hotelの略称で、自動車旅行者が泊まる便利なホテルである。普通のホテルと異なり車を止めるに必要な広い場所を有しており、1室何人でも宿泊料が同一である。どこの都市の郊外にもたくさんのモーテルがあるので、自動車旅行者は他の乗り物の世話にならずに米国中どこへでも行くことができる。
 中は小綺麗に整備され、簡単な料理ができる様な設備さえある。ベルボーイが来るわけでもなし、ドアマンの顔を見ずに、この点まことに気が楽であった。部屋は2つしか空いていなかったので、ロンゴ氏とザーム氏とが1室に入り、私は別の部屋に寝る。もの凄い音を立てて吹き付ける雨風は部屋の中で快い子守歌の様に聞こえる。
 この日の暴風雨のため、カリフォルニアの各地は洪水で大損害を受け、倒壊した建物も相当あった。

17-4 パシフィック鉄道クラブ

 太平洋岸を走るサザン・パシフィック、サンタフェ、ユニオン・パシフィック鉄道等が中心となってパシフィック鉄道クラブなるものを構成し、年に数回定期的に会合し、講演会を開催している。
 11月16日にサーフランシスドレーク・ホテルで会合があったので出席させてもらうと、サザン・パシフィック鉄道副社長コーバート氏が「ディーゼル電気機関車の利点」について自社の運転実績を挙げ、ディーゼル化への強力な前進を説いていた。その後着色フィルムのサザン・パシフィック鉄道の業務をうつした映画がある。
 各社の連絡を良くする上において、かくの如き会合は非常に有益であろう。

「タイヤの表面を削るレッガーウッドタイヤ」というものがちょっと判りません。綴りはlegger wood tireでしょうか? 日本の鉄道では、制輪子の形をした目の粗い“砥石”をエメリー・シューemery shoeと呼んで、同じように使っています。
 ベイブリッジの下段には確かキー・システムも通っていたはずですが、著者はバスに乗らなかったので判らないのでしょう。パシフィック鉄道クラブの存在は、後年の大合併を予感させます。
 当方の都合でタイピングが進みません。順不同ですが、だいぶ後の頁のストック分を掲載しました。

【追記】日本最初の通行料を徴収する道は三重県の参宮有料道路といって1953年に開通したとの記述を発見しました。ついでに有料橋を探すと日本初は1955年で長崎県の西海橋とのことです。著者の訪米は1950年ですから、金門橋とベイブリッジの課金システムを珍しがられたはずですね。2008-05-30

>>【サンフランシスコ(続)

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コメント

グレートノーザン鉄道と湘南電車の話を小生のブログに書きました。湘南電車の登場は1950年なので、このころに国鉄から何人か訪米されているのでしょうね。

投稿: Jackおじちゃん | 2006/05/07 12:04

初めまして、よしくんといいます。
まだコースト・デイライトがサンフランシスコ駅に乗り入れていた時代ですね。
最後の古き良き時代なのでしょう。

投稿: よしくん | 2006/06/02 23:48

よしくんさん、ようこそ
当時すでに航空機が速さでは言うに及ばず、運賃でもソコソコの存在になっていたにもかかわらず、鉄道が使われていた理由は、騒音とか空調、さらには安心感の面だったのではないでしょうか。何年か前にセスナとヘリに乗りましたが、大変に緊張した思い出があります。

投稿: ワークスK | 2006/06/03 00:02

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