« 時局解説百科要覧 | トップページ | 国鉄技師訪米記25:鉄道における水処理(上) »

2006/10/10

国鉄技師訪米記24:ラスベガス

百万長者の変わり者スコチー氏の城がある。
melma! back issue 2006/10/10 Vol.201 total 307 copies
The book of a JNR engineer's travels around the USA in 1950, part 24

このテキストの経緯と詳細については、第1回をご覧ください。

14.ラスベガス

 人口八千そこそこの、この都市はネバダ州の主要都市でもあり、世界的に有名な街でもある。ネバダ州は米国において博打を許可している唯一の州で、州都リノは離婚の都市としても有名である。ハリウッドの俳優連が週末になるとこの地に遊び天下御免の博打に興ずるのだという。フラシンゴホテルの豪華さには近代的なにおいと同時に美しい落ち着いたスマートな感じがした。ラスベガスの名は最近付近で行った原子爆弾試験で世界的に有名になってしまった。
 砂漠の大公園、死の谷Death Valleyを西にひかえて、人工の偉大さを示すボルダーダムBoulder Damを東に持ち、観光の中心地といえよう。また気候的に考えても、素晴らしく暖かいこの地は、冬期における避寒地としても有名である。

14-1 フーバーダム

 米国の西南部を走るコロラド河といえば、毎年必ず洪水を起こし、その被害の甚大なことは筆紙に尽くし難いものがあった。1922年に政府と、この河に関係を持つ7つの州の代表者がサンタフェに集合し洪水対策につき検討したのが工事の始まり、1億3700万ドルの巨費を使い、99人の尊い犠牲者を出し、1936年にやっと完成した。このダムはフーバーダムと名付けられ一名ボルダーダムともいわれている。
 高さ726フィート、底部の厚さ660フィート、発電所の馬力1,835,000馬力で、バックの貯水池、ミード湖は146,500エーカーに達する一大人工の湖である。10月31日(火)フーバーダムを見る。自動車が4台並んで通れるダムの頂上からエレベーターに乗って下まで降りて、発電所の施設、ペンストックの大きさを見ると、米国の資力の豊富をおどろくと同時に、自然の暴力に真正面からぶつかり、十年の歳月とたゆまない努力でこれを解決した米国人の偉大な勇気と忍耐とに感心させられる。
 今はこのダムによって洪水の危険は解消し、数十万エーカーの土地を灌漑し、百万キロワットの電力を起こし、水道の水源地ともなり、また観光地としてリクリエーションにもと正に一石五鳥の効果を上げている。
 コロラドの難を征服した米国人は、今ではテネシー河へ向かって努力を集中している。世界的に有名なTVAはこのことである。
 
14-2 死の谷

 1年ほど前、「死の谷Death Valley」という題名の西部劇には珍しい悲劇的結末を見せる映画が来たことがあった。岩山の奥に入り込み、どこへも逃げることも出来ず、一掬の水もなく、警官の十字砲火の中に恋人と共に死んでいくラストシーンは印象的であった。ネバダ州とカリフォルニア州とにまたがる砂漠の大公園デスバレーでロケを行ったそうである。
 米国中でも最も広範囲の眺望をもつといわれる「ダンテの展望台」にのると、東方の足下にはカラカラに乾燥した塩の湖が見える。その中に数本のアスファルトの舗装路が浮き上がったようにはっきりと筋を入れている。あとは一面褐色の山と谷とが交叉していてどこまでも続く。野蛮な文化から離れた景色である。世界漫遊途中の同行グロスマン夫妻も、あまりに雄大な景色に永い間見とれていた。この山の北に盆地があり、小ぎれいな店がある。ファーネス・クリーク・キャンプといい、海面より178フィートも低いとのこと。こんな山の中にそんな土地があるとは一寸想像も出来なかった。季節は11月、山頂に雪があるのに、この盆地では真夏の暑さを感じ、上着はもちろん、ワイシャツまで脱ぎたくなるほどの温度であった。
 死の谷の北部にただ一カ所、泉のわき出るところがあり、このほとりに百万長者の変わり者スコチー氏の城がある。古代の建物を模倣し、庭には豪華なプールさえ設けている。
「何故こんな砂漠の真ん中に家を造ったのか?」と案内人に聞けば、
「スコチー氏は永い間胸を病み、それを癒すにはデスバレーの気候が最適であったのです」と説明してくれたものの、一片の石を運ぶのにも大きな苦労があったろうに、よくもこんな大建築を造ったものとなかばあきれ、なかば驚きもした。物好きの多い、他人に出来ないことをしたがる米国人の気性を表す一例であるかもしれない。
 
14-3 電話の大失敗

 日本を出発する前にある人の紹介で野村元米大使にお会いして、
「帰りに旅費が無くなったときに、お世話していただけるような、顔の利く在米日本人を紹介してください」
とおそろしく厚かましいお願いをしたところ、快く引き受けてくだされ、ロサンゼルスの鳴海重太郎氏宛の書状を携えて渡米していた。往路はロサンゼルスに寄らなかったので、鳴海さんに「11月の上旬にお邪魔致したいが如何でしょうか?」と手紙を出したら「是非お目にかかりたい」との返事を受け取り、日程を再び御通知してラスベガスまで来た。11月1日はあまり良い天気なので急に予定を変えてグランドキャニオンへ行くことにした。

 電話で鳴海氏にロサンゼルス着の遅れることをお知らせしなければならない。電話で先ずホテルの交換手を呼び出し、
「ロサンゼルスのMr. NARUMIを呼んでください」と頼めば、
「ステーション・コールか、パーソン・コールか、コレクト・コールか?」と聞く。
 ステーション・コールStation Callとは「場所呼び通話」で、例えば「逗子XXXX」というと私の家が出るだけ、一番簡単な呼び出し方で日本の通話は皆これである。
 パーソン・コールPerson Callとは「個人呼び出し通話」で、例えば仙台から「神奈川県逗子町XXX番地の福島善清」と頼むと、まず最初に、私の家が呼び出される。もし居ればそれまでだが、不在だと「どこへ行きましたか?」と交換手が尋ねる。「大阪へ出張しています」と家族が答えると直ぐに電話は大阪へ飛び、私の後を追って探してくれる。それでも見つからないときには電話料はただになる。なんとならば「福島善清」なる人物が出ないからで、ステーション・コールで電話に誰も出ない場合と同じともいえる。しかし、もし私が電話口に出ればステーション・コールで通話したときの5割増の通話料をとられる。
 以上のことは日本出発時に勉強して知ってはいたが、交換手はこれらの他に「コレクト・コール」ともいう。それで仕方なしに、
「コレクト・コールとは何か?」と尋ねる。電話を掛けながら、これを知らない人も珍しく、交換手の方があわてたらしい。
「コレクト・コールとは……」と恐ろしく早い英語で説明してはくれたが、あまりにも早口なので全然分からない。
「Parden me」と聞き返しても分かりそうもないので、別の面から展開し、
「3つのコールの中で何れが交換手のあなたに都合がよいか?」と聞くと、意地の悪いことには「コレクト・コール」という。万事窮す!
「コレクト・コールで呼んでください」と頼む。
2分ぐらいすると電話口に鳴海氏が出て
「2日遅れてロサンゼルスに行きますからホテルの予約をしておいてください」
と依頼して通話は済んだ。コレクト・コールとは多分Correct Callで相手を確かめるのだろうと思っていた。
 次の日ホテルを出るとき、支払いをしようとすると、昨晩の電話料がついていない。しかし、請求しないものをこちらから言う必要も無かろうと考えそのままにしてしまった。

 それから約1ヶ月後プレジデント・ウイルソン号で帰国するときに、この話を在米15年の松本亨氏(現在、ラジオの英語会話担当の先生)に話したところ、
「あなたはとんでもないことをした。コレクト・コールとはCollect Callと綴り、電話料先方払いの意味です」という。つまりホテルの交換手はロサンゼルスの鳴海さんを呼び出して、
「Mr. FUKUSHIMAからコレクト・コールがかかっているが、電話料を払ってくれますか?」と聞いたのであろう。鳴海さんは、
「それなら、私が払います」と返事をしたのでつながったに違いない。その後鳴海さんには1週間ほどお世話になったが、そのときに「電話料でご迷惑かけました。いくらだったでしょうか?」と一言聞けば、一人前の旅行者となったのだが、自分としては電話料を儲けたと考えていたから、そのままにしてしまった。これが分かったときには私は既に太平洋の真ん中に居たのだからどうしようもない。

 世間は狭いもので今年の1月のある日、ある人のところで会合したとき「鳴海重一氏」にお会いした。
「鳴海重太郎さんとは何かご関係がおありですか?」と訊ねると、「私の父です」とのこと。世間が狭いというより世界の狭いのに驚いたのである。
 松本さんは「コレクト・コールは、旅行途中で金がなくなったりしたとき、家族または親友に電話で、送金を依頼できるし、非常に便利な通話方法です」と言われた。
 電話料は未だに鳴海さんからの借金として残されているが、何とかせねばと焦るだけで如何ともしがたい。いずれ日本に来られたときにお返ししようと勝手なことを考えている。【鳴海重太郎氏については、コメントも参照】

15 ラスベガスからグランドキャニオンへ

 11月2日(木)風は少しきついが、快晴の好天気、6時に電話で起こしてもらい、フラミンゴホテルより飛行場に向かう。グランドキャニオンまでは飛行機が一番安く12ドル54セントであった。汽車もバスも迂回しているため通過距離が長いからである。
 トランスワールド・エアラインTWAの21人乗りに12人の客、8時53分滑走した飛行機はフーバーダムの上を一回転してサービスしてくれる。空の上から見るミード湖は八つ手の葉のように四方八方に青黒い面を見せている。これが人工の湖かと疑うほど広い範囲にわたり山中の大湖となって見えた。

15-1 飛行機の保険

 飛行場の入り口近く、自動保険機がおいてある。25セント入れてボタンを押すと紙が現れてくる。これに飛行場所、本人の住所氏名、保険料の受取人を記入して別のボタンを押すと写しを一枚残して、書類が飛び出してくる。
 25セント(90円)掛けて、もし飛行機事故で死亡すると5,000ドル(180万円)、両手または両足または両眼を失えば同額、片手と片足、または片手あるいは片足と片目を失えば同額、片手または片足または片眼を失えば2,500ドル(90万円)の保険金をもらえる。一回について1ドル25セントまで掛けられるので、保険金は25,000ドル(900万円)が限度である。
 保険を簡単に掛けられる点と、その間人手を全く使用せずに一切を機械にまかしている点は、米国の機械化による能率向上の一面を表している。
 飛行機事故はこの費用を逆に考えるとかなり少ないものである。5,000ドル分の25セント、すなわち2万分の1より事故回数が少なくなければ保険は成り立たない。飛行距離から計算すると汽車の事故より(同一距離をベースにすると)少ないそうである。

15-2 グランドキャニオン

 飛行機は9,000フィートの高さを真東へ飛ぶ。ワイオミング州から発するコロラド河は、ユタ州、ネバダ州、アリゾナ州を流れメキシコへ流れていく。雨季でなければ静かな黒い細い体を大砂漠高原に深く入れ込んでいる。濃褐色の水がミード湖には入ってきれいに澄むのかと思うと一寸不思議にも思える。高原の上には点々と針葉樹が生長している。
 コロラド河がアリゾナ州に流れ込んだ付近から沿岸を切り広げて素晴らしく雄大な渓谷を作っている。これをグランドキャニオンGrand Canyonといい、1,008平方マイルの中、長さ56マイル、河の長さにして105マイルの間が国立公園に指定され、1950年の10月だけでも45,000人以上の観光客を入れたという。

 遊覧バスに乗ると案内人がモーランポイントで上手に説明してくれる。世界各国から英語のあまり達者でない人もたくさん来るのであろう、丁寧なゆっくりした言葉で話してくれる。
「毎年コロラド河が運ぶ砂を貨車に載せると、ニューヨーク・サンフランシスコ間を1往復するだけつなげても、なお余りがあり、もう1回セントルイスまで延ばせます。こうして毎年削る河のために、対岸の距離8~20マイル、河の面の深さは1マイルにも達し、この距離は次第に広げられていきます。ニューヨークの人はいますか?」
 見物人を見回して手を挙げさせ、「エンパイヤーステートビルに上がったことがありますか?」と再び尋ねる。当然「もちろん」との答えに対し、「河の水面からエンパイヤーステートビルを幾つ積み重ねたら、今我々がいるところの高さまでとどくでしょう?」
 聞かれた人は頭を傾けて考えている。
「ビルを5つ積み重ねなければなりませんよ」
 中々上手な話し方であった。
 それから後は地質学的な説明をしてくれるが、少し難解なので首を傾げると何遍でも繰り返し説明してくれる。日本の案内人のように通り一遍の説明で止めてしまわない。ときどき「分かりましたか Get idea?」と聞く。聞いている人々の顔色によって説明の方向を変えていくつもりなのであろう。愛想の良い親切な説明にはほとほと感心したのである。

 更に東方へ行くとサンタフェ鉄道がその営業的見地から作り上げた展望台がある。新しい建物だが、外見は如何にも古風に作られ、周囲の絶景を壊さぬように配慮されている。ガラス張りの展望台には望遠鏡をおき、グランドキャニオンの要所要所を説明してくれる。室内にはこの土地の歴史を語るものが並べられ、壁にはインディアンの絵画が意味ありげに刻まれていた。
 ここで半時間ばかり休みエルトバーホテルに戻れば「夕方5時半からインディアン・ダンスがあります」とのこと。物珍しい気持ちがいっぱいでホテル前の多数の観衆に混じり、入れ替わり立ち替わり踊る古風な風土色濃厚なダンスを見たが、ただ珍しいというだけで残念ながら余り面白くなく、夕日の沈むのと同時にダンスも終了した。
 騒音から全く離れて高原の清々しい冷たい空気の中で一夜を過ごす。遠くの方からかすかに犬の声とインディアンの太鼓らしい音が静かに響いてきたが、それも夜の更けると共に全く静まり、自然の作った最大の渓谷は闇の中に静かに眠ってしまう。

>>【ロサンゼルスの憶い出

|

« 時局解説百科要覧 | トップページ | 国鉄技師訪米記25:鉄道における水処理(上) »

国鉄技師訪米記」カテゴリの記事

コメント

僕は鳴海重太郎さんの親戚です。
なんとなく重太郎さんのお名前を検索してこちらに来ました。
重太郎さん、親戚全員に当時高価だった冷蔵庫を送ってくれたりしたと聞いています。

>>コメントをありがとうございます.
 同氏のお名前を検索すると,いくつかヒットしました.戦前から相当な名士だったようです.2024年1月30日発行の和歌山県立近代美術館ニュース No.117には上山鳥城男という画家に関連して言及がありました.和歌山県金屋町出身の鳴海重太郎氏は1904年に渡米し,アラメダで農園を経営したのち,1912年にロサンゼルスに移ってからは,ロサンゼルスの日本人会や県人会の役員を務めていた……とのことです.ネットには邦人向け新聞の記事が数多くアップされていますから,戦時中の強制収用時や戦後のことを含めて,詳しいご経歴が浮き彫りになるやもしれません【ワークスK】

投稿: 吉田 | 2024/07/20 10:59

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 国鉄技師訪米記24:ラスベガス:

« 時局解説百科要覧 | トップページ | 国鉄技師訪米記25:鉄道における水処理(上) »