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2006/10/13

国鉄技師訪米記27:サンフランシスコ(続)

6ヶ月間降りずにいると懸賞金が5,000ドルです……
melma! back issue 2006/10/13 Vol.204 total 307 copies
The book of a JNR engineer's travels around the USA in 1950, part 27

このテキストの経緯と詳細については、第1回をご覧ください。

17 サンフランシスコ

17-5 広告

 11月21日、オークランド機関区からの帰途、街の真ん中の中古自動車屋の店先に塔が立って、それに「婦人空に登る」と書いた広告のついているのを見た。同行のザームさんに事情を尋ね驚いたことには、この婦人は19歳の麗人でエルマさんといい、この塔の上の小室(というより箱)に登ったまま既に112日(約4ヶ月)を過ごしている。
「何時まで登っている気ですか」
「来年の1月までだそうです」
「何のためにあんな無理をするのですか」
「中古車屋の広告です。6ヶ月間降りずにいると懸賞金が5,000ドルです」
 なんと無理した広告であることか。本を読んで飯を食べていればそれでよいといってしまえばそれまでだが、5千ドル(180万円)を投げ出した中古車屋もさることながら、これに応募する決心をした女性も偉大な心臓の持ち主である。がしかし日本でも百万円出すといったら女性から応募者が出るかもしれない。

 この都市の中央の自転車屋のショーウィンドーで、婦人の人形が自転車に乗り車輪が回っている。その横に「彼女は○○マイル走り続けています」と書いてある。夜も止まることなくペダルを踏んでいるが、見ている人が「彼女の着物は何時破れるだろうか」と心配していた。
 人目を引かせる広告の技術は大したものである。飛行機で煙幕を出し、それで広告すべき文字を書いているのにはときどきお目にかかったが、なかなか費用も大変であろうとよけいな心配をする。

 毎週日曜日の夕、5時半からラジオで愉快な放送が1時間にわたって全米の耳を傾けさせている。最初に歌が聞こえる。しばらくしてそれが途絶し、放送局から全米のどこかの家(これに当たった人は幸運だ)に電話がかかり、
「もしもし今の放送を聞きましたか」
「Yes」
「放送された歌はなんだか分かりますか」
「○○です」
この答えが間違っていればそれまでだが、もし正しければ拍手と同時に、
「その通りです。では、次の音楽です」
という声と同時に別の音楽が始まるが、一節だけしか放送しない。
「今の音楽、分かりますか?」
「……」
 大抵は判らないらしい。それで終わり。もしこの関門を突破して答えが正しければ、放送局からダイヤモンドの指輪、電気冷蔵庫、洗濯機械、あるいは椅子、机等が賞品としてもらえるのである。私は一寸不審になったので、
「こんな高いものを渡して、放送局は損をするでしょう?」
「いえ、損はしません」
「なぜ?」
「放送局はただ、品物名を放送するだけです。送るのは製造会社です」
「さっぱり判りません」
「この放送は全米の人が聞いていると言っても過言でないでしょう。全米の人の耳に何遍も『次はGEの冷蔵庫です』と放送されるなら、GE会社にとっては1台の冷蔵庫の寄付にしては余りにも安い広告代でしょう。つまりこの放送全部が品物の広告なのですよ」
 いやはや、全く開いた口もふさがらなかった。

17-6 土井口さん

 11月14日から降り出した雨は、1週間経っても一向止みそうにもない。雨、雨、雨の連続、人間のすることも大きいが自然も負けずにこの米大陸では暴威をふるう。雨が降るのにこの国の人は余り傘を利用しない。ホテルの窓から試みに算えてみると、7人に1人の割にしか傘を持っていない。大部分の人は塩化ビニールのカバーを帽子の上に被せて、レインコートだけで歩いている。歩くことが、日課の内でごくわずかの割合なので苦労はないのであろうか。

 カリフォルニアを襲った洪水のおかげでついにヨセミテ公園行きも出来ず、休日は仕方なしにホテル付近の商店街をのぞいていた。軒下で雨宿りをしているとき、二人連れの日本婦人、土井口さんと犬山さんにお会いし、勧められるままに土井口さんのお宅で厚かましく夕食を御馳走になる。ご主人の土井口さんは話し好きな方で、色々と米国の事情を話してくださる。先ず米国にいる日本人について、
「戦争の勃発と同時に、カリフォルニアの日本人は一世はもちろん、二世まで州から追い立てをくい、キャンプに入れられてしまいました。その上猶予期間が余りにも短かったために家財道具は二束三文で売らざるを得ませんでした。そして売れなかった物はその後へ来た侵入者に近い乱暴者にほとんど持ち去られてしまったのです。

 戦争がすむと同時に日本人の多数は元いたロサンゼルスまたはサンフランシスコに戻り、苦心の結果次第に資金を得るようになり、家や土地を買う段取りまでこぎ着けましたが、一世は日本に籍があって米国に市民権を持たないために、土地家屋の不動産を登記できません。仕方なく窮余の一策として子どもの二世が米国人として籍があるのを利用し、その名を使って土地、家屋を買いましたが、州の法律は他人の名義を利用する詐欺行為としてこれを没収しました。日本人は犬山氏を中心に団結して大審院に訴訟し「子どもに菓子をやって悪いであろうか。自分は何時死ぬかもしれない。何時死んでも子どもが困らないように、土地と家屋をプレゼントすることがなぜ悪い詐欺行為になるのか。日本人は子どもに菓子を与えてはいけないのか?」と情理を説きながら論ずる裁判は、日本人ならずとも全ての米人の興味ある問題であったに違いありません。大審院はついに日本人側の言い分に勝を決定し、カリフォルニア州は敗訴したのです。そして取り上げた土地は全部再び日本人の手に返りました。その後は日本人はどしどし発展しています」

 語る土井口さんは実に晴れ晴れとした顔つき、聞いても気持ちの良い話であり、在米日本人の偉さと米国大審院の心の寛さに感銘する。土井口さんは日本人がなぜ米国で戦前嫌われたかをこう説明していく。

「日本人排斥は、カリフォルニアの一部米国人の妬みをもちろん原因でありましたが、その当時の日本人は大抵は米国で儲けて故郷に錦を飾ろうとしたので、不動産を買う人は少なく、大部分は日本の銀行に預金し、帰国後の安穏な生活への準備をしていました。そのため一部米人からは『日本人は米国で稼ぎ、その金は皆日本へ持ち帰り、米国の繁栄のためには消費しようともしない。日本人は米国人と同化できない人種だし、一旦日米間に事が起きたときにはどんなことをするかもしれない』と誹謗されるに到り、また国際情勢の不利も手伝って、排日感情が高まりました。この悪感情は真珠湾攻撃で最高に達し、西海岸一帯から日本人を全部追い出してしまったのです。
 その後戦争の発展に従って在米日本人への悪感情は薄らいでいったようでした。それをほぐした最大の功労者は何といっても二世部隊の人々でしょう。はじめ試みにハワイで募集した日系米人の部隊は、イタリー戦線において非常な活躍を示し、部隊ほとんど全部が死傷するほど、余りにも勇敢な働きを示し、それから後に繰り出された日系部隊も欧州戦線でまたもや大活躍をし、この部隊が米国へ引き揚げたときには、一般米国人は熱狂的に歓迎し、その感激は正に空前絶後であったともいいます。二世部隊に呼応するがごとく、キャンプ生活をしていた日本人および日系米人は少数の例外を除いて、非常に素直にその生活を続け、荒れ地を開墾し砂漠地帯の不毛の地を立派な畑に変えていったのでした。こんな事も米国人の日本人への感情を解していくに役だったと思います」

 キャンプ生活を4年続けた土井口さんの経験談はなかなか面白い。しかし米国で監禁されたこれらの日本人が食べていたものは、日本で戦争中を過ごした我々のものより遥かに上等であって、「正月に餅を食べたい」と要求すればモチ米を集めてくれたし、「牛肉が多すぎるから他のものにしてくれ」と要求すれば大抵は希望通りにしてくれたそうである。そして柵こそあったが、キャンプ全体には自治制の村長をおき、かなり自由な境遇であったらしい。
 土井口さんの話は何時尽きるとも判らない。税金の話、自動車の話、ガソリンの話等々、夜の更けゆくのも知らずに耳を傾ける。11月の空から冷たい雨が降っている。御礼を述べてホテルに帰ったときは12時をだいぶ過ぎていた。

Turky 17-7 感謝祭

 11月の最後の木曜日を感謝祭Thanksgiving Dayとして、米国の人々は神の恵みを感謝し、七面鳥を食べ、勇敢なる先祖の業績をしのぶのである。
 11月23日(木)東京からの紹介で林さんにお会いする。林さんはサンフランシスコの対岸オークランドでツツジを栽培しておられる。その南方に大きな温室を持ち、日本趣味を元にして米国調を加えられて、非常に米国各地から喜ばれているという。
 林さんのお宅では感謝祭をご家族、ご親族を集められ、一世二世三世の大宴会であった。私をお客として歓待してくだされ、素晴らしく大きな七面鳥を御馳走になった。陸軍で日本語を教えておられる御令息の話もなかなか面白い。
 17時に辞去し、前からの約束で土井口さんのお宅を訪れれば再び七面鳥の御馳走である。サンクスギビングディのおかげで胃袋はもの凄い戦いをせねばならなかった。

>>【バスと電車

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