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2008/01/18

カプラーの真偽一体

Is the knowledge of couplers in Wikipedia useful?

 ウィキペディアは知識の源泉となり得るのか? という疑問は正直、日々湧き上がり、また新聞や雑誌、個人のブログ等にも時々登場するテーマですね。2、3年前に較べれば長足の進歩が見られるとはいうものの、ところどころで不思議な記述に出くわします。
 ここでは先日来、私が調べている「連結器」の項について、首を傾げた点を俎上に上げて、ウィキペディアについて考えてみました。

(1)ウィキペディアの錯誤の数々

 まず、自動連結器についてです。「古典的構造の場合、引張力は車体取付部に直接伝わる。圧縮力は緩衝器を挟んで伝わる。緩衝器は反発力によって相手車両を押し出すのに十分な容量があるところ、連結面で22mmの遊間(遊び)があることから、加減速時の衝撃を吸収しにくい弱点がある」
 うむ。これでは「牽引時には緩衝器が利かない」ということなりますが、もちろん事実は違います。同じ緩衝部材(コイルバネや積層ゴム)が牽引・推進両方に作用する構造が一般的です。構造説明図の読み間違いか、ネジ式連結器の鈎付き引張棒に緩衝器が装備されていないという思いこみから来た誤解が原因だと思います。【当ブログの緩衝器の基本的な働きおよびネジ式連結器の知られざる真実を参照】

 密着自動連結器では「連結器の形状を改良して精密な機械加工を施したものである。連結時の遊間をなくしているため、発車時の衝撃が緩和される。とはいえ、ネジ式連結器や密着連結器、緩衝器付き自動連結器などと比べると衝撃は大きい」‥‥これも、むむむ。
 この説明では「密着」の効能は発車時だけだし、他方、自動連結器(のナックル面)が機械加工をしていないことになってしまいます。この密着作用は、ナックルの動きを"くさび"作用で遊間を無くす構造で実現されるのであって、精密機械加工ではないはずです。また密着自動連結器の衝撃は当然、密着連結器相当です。鉄道車両の連結器には必ず緩衝器が付帯していることを知らない悲劇ですね。

 小型密着自動連結器で引っ掛かるのは、日本鋼管の手で開発され、同社の型番ではNCB-IIと呼称される」という箇所です。うーむ。
 私の認識は広島の「日本製鋼所」なので、日鋼式の名前があるというものです。(けれど、ここで「日本鋼管が違う」という証拠も示せません) 日本製鋼所の製品案内ページをご覧ください。確か、京阪線がNCB2、大津線80形がNCB3でした。なお、この連結器は住友金属(上の写真)でも製造しています。

 一方で、中には「おっ」という知識も含まれています。 例えば密着連結器で、「ルーツは1903年にドイツのカール・シャルフェンベルク(Karl Scharfenberg)が発明したシャルフェンベルク式連結器にさかのぼり‥‥」という記述です。一般の書物で、柴田式密着連結器の開発は言及されるものの、このような世界的流れの中での解説は希有です。ただし、これが嘘か真かは判断できません。

 自動連結器について「垂直方向のずれは連結器の連結面によってある程度許容する。このため連結面にはグリースを塗布しておく必要がある」という中のグリースについては、「信じたい」のですが、全体のレベルからして眉に唾する内容です。回り子式密着連結器では確かに、グリースがコテコテに塗られていたのを見た記憶があります。

「下津井電鉄のモハ1001号は1990年の同線廃止までネジ式連結器を併設していた」という件はファンとして興味深い話です。記述者の「見誤り」、「誤認識」という可能性が捨て切れませんが、記憶に留めておく価値はありそうです。

 また、自動連結器はエリー・ジャニー(Eli Hamilton Janney)の考案」という部分は本場英語版からの翻訳ですから、それが定説だと判断できそうです。

 それから小型密着自動連結器を採用している一部の私鉄は、東京急行電鉄、京成電鉄、相模鉄道、名古屋鉄道、京阪電鉄」という記述は、書き手のみならず読み手が写真などで簡単に確認できますから、大丈夫でしょう。

(2)知識の多重構造と書き手

 というわけで、ウィキペディアの「連結器」に関する内容は玉石混淆です。「あら」は探せばいくらでも出てきます。それも重箱の隅といった些細な部分ではなくて、連結器構造の根幹に関わる緩衝器への無知蒙昧という大問題です。
 もちろん皆さんが認識しているように、ウィキペディアの書き手は、「連結器」の本質について知識と経験が“ある”専門家ではありません。これはお金を取って販売する百科事典や専門書では考えられないことです。

 さて、鉄道に関して「知識の多重構造」というものを考えてみます。
 まず一番詳しいと思えるのは製造メーカーや鉄道技術研究所という存在。その次が、そこの製品や技術を利用する鉄道会社。さらにその乗客やファンという、少なくとも知識の階層を3つに定義できます。数の比率でいったら、1:100:10,000ぐらいを想定しましょうか。

 市販の百科事典と同じく、本来、ウィキペディアを執筆すべきは当然「1」の連中です。根本的な原理原則を知っている専門家ですが、存在はほんの一握りです。かつ、知識や技能は元来、一般人には説明しにくい面があるので、かみ砕いて分かり易くしたものを提供しようという専門家は稀有です。

「100」の方々は、自分の職業に関係する知識ですから、範囲が限定的とはいうものの一応の専門家です。結構な人数が存在します。蛇足ですが、「鉄道工学」などの名前で出版される書物には、この「100」の方々が書かれたものが結構多い様です。それらは運転士や検修要員向けの教科書を基にしたものなので、内容を吟味して、キチンと「1」からの知識、情報を基にしているか否かを判断する必要があります。

 一方、「10,000」は、大勢います。中には専門家顔負けのファンがいます。しかし、知識は断片的です。ウィキペディアの書き手は、興味のあることを“知りたい”、あるいは既に得た蘊蓄を“披露したい”という、このファン層がメインです。
 ただ、そういう方々には大いなる熱意があります。狂気といったら言い過ぎでしょうが、マニアックな情熱をぶつけていく行動力を備えています。それがあるからこそ、こんな膨大な百科事典が無報酬で出来上がってしまうのです。これは凄いことです。

(3)ウィキペディアの存在意義

 だから、ウィキペディアは信用できない
 インターネットは誰でも情報発信できて権威がない
ということになるのでしょうか? しかし、紙に印刷された情報だって、似たようなものです。例えば新聞におかしな記事が登場するのは日常茶飯事だし、テレビでもそうです。事件として注目される事以外にも、ゴマンと転がっています。趣味の世界でも、見識があるはずの雑誌でさえ、摩訶不思議な記述は数知れず、怠慢でこの世界をミスリードしたことも一度や二度ではありません。

 私は、ウィキペディアが「所詮は素人の稚拙な知ったかぶり」とも、「これでは使いものにならない」とも思いません。当然といえば当然の話です。そういう視点を念頭において読めばいいのです。背景とか情報源とかに注意して新聞を読み、テレビを見るのと同じです。

 要は、読み手の問題だ、と私は思います。
 前後の論理展開や根拠、出典を参考にし、かつ自らの経験、知識を総動員して判断し、自分が欲しい情報を得ればよいのです。あるいは「ウィキペディアにはこう書いてあった」というだけの話です。
 極論すれば、「一般的なファンの知識レベルはこの程度だ」、という大変に貴重な情報が、ここには存在しています。
 別の見方をすれば、ウィキペディアに書くことが正しい知識にアプローチする切っ掛けになります。書くためには文献を探して調べるというプロセスを踏みます。また、本当に知っている技術者が読んで、知識を放出してくれる糸口になり得るのではないでしょうか。すなわち、真実に近づくためには、少し時間が必要です。

 18世紀のリンネの分類法が現代のDNA解析によって根本的に覆りつつありますが、それでリンネの存在が無意味になったわけではありません。 ‥‥と、ちょっとこの例えは不適当です。論理展開が迷路に入り込んでしまいました。老人の戯言になりそうなので‥‥

【追記】論点を変えてみます。言葉は拙いかも知れませんが、言いたいことは判っていただけるものと存じます。ディベートを仕掛けるものではありませんので念のため。

 ウィキペディアには、市販の専門事典や解説書の代用という意味合いは薄い。
 その魅力は、専門書が触れない仔細で取るに足らない事柄にある。それらは、今まで欲しくとも手に入れることができなかったものだ。言い換えれば、ウィキペディアには興味本位で知りたいことが微に入り歳に入り、載っている。
 知識は本来、専門家が演繹的に提供すべきものなのだけれど、多くは、素人が判るように噛み砕くことが困難で、一々説明するのも面倒だ。あるいは出し惜しみをしている。
 よってウィキペディアンが必死の思いで帰納的に追究する。(すなわち、知識が本質的でない恐れはある)
 ここでは、知らしめたい側ではなく、知りたい側が主導権を持っている。
 知識集積方法の革命だ。

【追記2】別の面から切り込んでみます。

 市販の万人向け百科事典に出ている項目は「鉄道」や「カメラ」止まりだが、ウィキペディアには専門的分野に踏み込んだ「福井鉄道」とか「デジタルカメラ」がある。更に一部の連中が「福井鉄道デキ10形電気機関車」やら「手ぶれ補正機構」などという項目を建ててマニアックに書き込んでいる。
 近代フランスで誕生したときには、なるほど
科事典程度だったが、大量印刷の時代には科事典、科事典へと進み、パソコンを使うようになって科事典、さらにウィキペディアでは科事典を目指す勢いだ。
 こうなってくると書き手は、学問を究めた博士や知識人だけではなくて、その道のプロや専門の技術者、さらには熱心なファンや市井の研究者が加わってくる。いや、加わるからこそ項目が多種多様となっていく。
 ファンや市井研究者はある意味、その項目についての「第一人者」たり得る。

【追記3】ウィキペディア日本語版の「連結器」の項で指摘した「日本鋼管」は、「日本製鋼所」に直されていました。2008-07-01

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コメント

ウィキペディアの著述の正確性についてですが、プロの科学者、技術者の立場で、辞書、教科書などに著述した者の立場からいえば、
ウィキペディアの著述は、そのまま信用できず、(少なくともそれを職業上利用するのであれば)原典にあたって確認をとる必要があります。辞書、教科書などは、編集者が責任を持って個々の事項を記載しているのであり、編集者、記載者(Contributor(s))が明示されています。ある辞書、教科書が、公平な立場から著述されているかは別問題ですが、出版の責任者は特定されているわけです。しかるに、ウィキペディアをはじめとするネット上の情報の多くは、その『責任の所在』が明確ではありません。そして、その事項の著述について議論するプラットフォームもありません。これが、ウィキペディアなどを「無責任」にしている根本の1つです。
「本来、ウィキペディアを執筆すべきは当然「1」の連中です。根本的な原理原則を知っている専門家ですが、存在はほんの一握りです。かつ、知識や技能を一般人には説明しにくい面があるので、かみ砕いて分かり易くしたものを提供しようという技術屋は稀有です。’」と述べられていらっしゃいますが、どこの誰々をもってこの部分を記載させるという作業自体が編集責任なので、まず、その責任母体を確立し、関係者間でコンセンサスをとる必要が生じます。ここまで書けばお分かりでしょうが、ウィキペディアは信頼性に欠ける娯楽でしか存在しえないのです。(1つの事項でも不正確、または責任の所在のわからない項目が含まれていれば、その辞書全体の信頼性が失われます。)
最後に、『 18世紀のリンネの分類法が現代のDNA解析によって根本的に覆りつつありますが、それでリンネの存在が無意味になったわけではありません』と述べられていらっしゃいますが、DNA解析によって覆りつつあるのは、分類体系そのもの(結果)で、分類法自体、および彼の考え方自体は否定されておりません。(ちなみに私はプロの生命科学者でアメリカの大学教授です。)

投稿: もと日本人 | 2008/01/20 03:34

もと日本人さん、コメントありがとうございます。「ウィキペディアは娯楽」という見方は目から鱗ですね。確かに大変に面白い知的ゲームでしょう。署名無しという方法は、多くの問題、ネックを抱えていると私も思います。

投稿: ワークスK | 2008/01/20 04:37

 検索はできるけどそれはコンピューターのおかけであって、実はまったく整理もされていないし間違いも多い。ウィキペディアって実は百科事典でもなんでもなく、山積みになったメモ用紙やコピーの束なんですよ。そう考えれば間違いを見つけて人の心配をしたり腹を立てることもなくなるのでは?
 論点のずれた意見ですみません。

>>ネット検索にしたところで単語入力によって結果は異なるし、GoogleやYahooも全てを完全に拾えるわけではありません。要は、ネット上の情報は、扱う人間、利用する側の巧拙、資質が問われる面も多いと思います【ワークスK】

投稿: YU | 2009/05/18 08:11

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