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2008/07/23

自動連結器誕生の物語

 ウィキペディア英語版「Eli H. Janney」の項目に貼ってあったリンクで、The Strongest Handshake in the World【リンク切れ確認2012-02-14】という自動連結器が生まれた経緯を詳細に語るページを翻訳してみました。筆者はジョン・ホワイトJohn H. White, Jr.という、スミソニアン協会の名誉上級歴史員で、マイアミ大学(オハイオ州オックスフォード)の歴史と機械工学の教授です。

 この表題の「Strongest Handshake=最も強い握手」にはカプラーの意味は当然として、もう1つ、自動連結器の実現に関わった人物たちの固い絆という意味合いも込められている様です。このことからも判る様に、文学的な表現が多く私には難解で、意訳に次ぐ意訳を試みていますので、たくさんあるはずの誤訳を御指摘いただければ幸いです。
 もちろん、このテキストを掲載するAmerican Heritage.comには、翻訳して紹介する旨のメールを出しています。

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 1831年、エリ・ジェイニーEli H. Janneyは、ワシントンに近いヴァージニア州Loudoun郡で質素な農家に生まれた。しばらく神学校に学んだのち農場に戻っていたところで南北戦争が始まり、南部連合軍に参加して物資補給担当の少佐majorまで昇進した。戦後は、再び農業を再開するにはあまりに貧しくて、ヴァージニア州アレキサンドリア近くの雑貨屋の店員となった。

 その仕事の間に、地元の鉄道作業員や新聞などからピンリンク式の連結器で怪我をした話を見聞きして、機械に対する素養がなかったにもかかわらず改良を思い立った。1868年4月に1回目の特許を取得したが、市井の多くの発明家同様にそれは失敗に終わった。
 そしてある日、彼は指同士を、両手の2本の親指が上と下になる様に引っ掛けてみた。すると、指のどちらかを開くと、この結合は外れることに気が付いた。直ぐに模型を作って、ある製図工に頼み図面をおこしてもらった。1873年4月29日、第2回目の特許を取得した。これが自動連結器の始まりである。

 彼は2、3の友人に融資を頼んで4台の連結器を作り、小さな地方鉄道に売り込みを図ったが、その様な発明家とアイデアを鉄道側では締め出すのが常だった。その中で、Pittsburgh, Fort Wayne and Chicago RailwayのJ. D. Laingという人物が関心を示してくれた。1874年にテストを行い、結果を受けて4年の内に152両の客車全てを取り替えるまでになった。ただ貨車5,000両はそのままだった。
 さらに1876年、その親会社のペンシルベニア鉄道でも採用することとなった。"世界の標準鉄道"と呼ばれたPRRである。ただしここでも採用は客車だけで、13,697両の貨車はピンリンクのままであった。客車は接続鉄道間で引き継がれることは滅多になく、連結器の互換性に問題がなかったのに対して貨車は、鉄道間で積み荷を載せ替える必要がないように常時、貨車自体の相互交換が行われていたのである。

 当時、いくつかの鉄道はエズラ・ミラーEzra Millerによる1863年の特許を受けた半自動カプラーを採用しつつあった。しかしそれは扱いにくい上に1両当たり100ドルの特許料という法外なものたっだので、PRRは代わりにジャイニー式に目を付けたのだ。
 そこでジェイニーは製造を拡大するために、ピッツバーグの鋳物事業者であるEagle Gray Iron Foundryのウィリアム・マッコンウェイWilliam McConwayとそのパートナーであるJohn J. Torleyを見い出した。彼らにとってジェイニーは、連結器に関して1875年までに特許を取得して競合していた900人の内の1人だった。1877年あるいは1878年、2人は発明を製品化することに同意し、ジェイニーがヴァージニアで農場を買い戻すに十分な金額を支払った。

 連結器の特許は、1887年までに4,000以上、1930年までには約12,000が存在した。多くはマトモだったが、幾ばくかは奇怪で、実現不可能なシロモノだった。1867年に発足していたMCBA(Master Car Builders Assoiation)にとっても連結器は重大な問題と認識され、1885年にチームを立ち上げて本格的な検討が始まった。そして1887年、ジェイニー・カプラーをその新しい標準に採用することと決めた。【なお、新たな連結器は旧来のピンリンク式とも連結できることという条件があった。】

 しかし、決議は必要条件ではなくて推奨にとどまったために、2、3の鉄道が自発的に安全カプラーを貨物列車に取り付け始めただけで、数は少ないままであった。1888年にマッコンウェイらはジェイニー特許の一部放棄に同意して他のメーカーの参入を促したが、それでも大きな転換をもたらすには至らなかった。この年までにアメリカ全体で100万台の貨車の内、安全カプラーを備えていたのは1割に満たなかった。反応しない鉄道業界に業を煮やし、改革派は政府に援助を求めたもののコネティカット、マサチューセッツ他、2、3の州が1880年代にカプラー法を可決しただけで何の効果も無かった。

 一方、ロレンツォ・コフィンLorenzo S. Coffinは、1823年にニューハンプシャー州で生まれてオバーリンOberlin大学 に学んだ後、1855年にアイオワ州に住みつき、南北戦争での北軍の従軍牧師を経て、地元鉄道の用地管理人の職を得ていた。
 そしてある日、仕事でカブースに乗車中にブレーキマンが指を潰す事故を目撃したのである。これが契機となって、安全カプラーの普及を新聞記事に投稿したり、MCBAや鉄道関係者の集会で訴える行動を取り始めた。その結果、1883年にアイオワ州鉄道委員会委員の指名を得ることができた。その委員会は鉄道業界に働きかけるというよりも市民をなだめるための非活動的な組織だったが、彼は鉄道安全法案を可決することに成功した。それは、州を跨いで移動する全ての貨車に安全カプラーと空気ブレーキの装備を命令する連邦法への第一歩という位置づけで、以後、彼はワシントンでのロビー活動に注力し始めた。しかし、採算第一を唱える鉄道事業者を代弁する議員が大部分だった。

 死傷事故の頻発を危惧する国内の声が高まる中で1890年頃、彼の活動がベンジャミン・ハリソン大統領の耳に入った。
 1893年、ついに連邦議会は安全カプラーと空気ブレーキを義務化する
Railroad Safety Appliance Act(鉄道安全装備法)を可決し、ハリソンは大統領としての最後の執務日である3月3日に署名して、そのペンをコフィンに贈ったという。

 法律に定められた期間は5年であったが1898年の達成率は68%で、期限は2度3度と延長された。この間、カプラー関連事故の割合は32%だったものが、1900年には9%、1902年には4%へと激減したのである。
 その後コフィンは新たな宗教活動に移り、ハリソンは引退して1901年に死去。そして、ジェイニーはヴァージニアの農場で1910年に健康が衰えるまでカプラーの研究を続けて1912年に亡くなった。

 このテキストには自動連結器のことしか記してありませんが、同時に空気ブレーキも実現していくことになります。それについては、「バーリントンのブレーキ実験」という記事を書いてみました。

 また、MCBAでは連結器でもジェイニー式以外に幾多の方式が真剣に検討されたわけですから、この物語の陰に数え切れないサイドストーリーがあったはずです。
 また一概にジェイニー式といっても、1社単独で全米の需要を賄いきれるわけではなく、肝心のナックル式という基本だけは押さえて様々なメーカーが種々の方式を供給し、またピンリンク式との結合にも工夫を凝らしたのだと思います。それらが1916年に制定されるType Dに収斂されていくわけです。

 さて、上のモノクロの2つの図版には"Chesapeake and Ohio Railway"のクレジットがあります。ピンリンク式の操作員は、右手でリンクを持ち、左手でピンを支える棒を操っています。自連の図版にある文字が小さくて読めないのが残念です。またこの著者の大学をB・ハリソン大統領が卒業していますから、その辺りの思い入れもありそうです。
 自連化達成率の推移については本誌の「大正14年自動連結器化の偉業」にある「米国における自連採用状況」という表もご覧ください。

 1873年のジェイニーによる基本特許取得から、1902年の全米カプラー取替完了までに29年もの歳月が必要で、その間に幾多の情熱が注ぎ込まれ続けていたことを知らされると、我々の生活の中に当たり前のように存在する技術の真の重さを感じないわけにはいきません。やはり安全は、現実への洞察と不断の行動の積み重ねによってのみもたらされるということを再認識している次第です。

【追記】ジェイニーの失敗だった最初の特許(1868年)が石炭車を解説するCoal Cars: The first Three hundred yearsというテキストに出ていました。pdfファイルの12頁目です。我こそはモデル化しようといわれる方はクリックしてみてください。

Janney1868

 さらに驚いたことにジェイニーから特許を譲り受けたEagle Gray Iron Foundry改めMcConway & Torley, LLCという会社が未だに盛業です。「Company Information」のページに会社の歴史を紹介する動画があって、この中にジェイニーの顔写真が出てきます。
 エズラ・ミラーの半自動カプラーについては「弁慶号の連結器は? ミラー式の話」をご覧ください。2008-07-24

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