MCBAのバーリントン・ブレーキ実験
しばらく前にお送りした「自動連結器誕生の物語」の中で紹介したアメリカの鉄道安全装備法=Railroad Safety Appliance Actの制定において、特に空気ブレーキ実用化への大きな切っ掛けとなった実験があります。それが1887年のバーリントン近郊におけるMCBA(the Master Car Builders Association)主催のトライアルです。
私が初めてこの実験のことを知ったのは、ライフ/人間と科学シリーズ「車と文明」(1977年刊)の次の一文です。
「年間3万件以上にものぼる死傷事故に対する鉄道関係者の態度に義憤を感じていたコフィンは、MCBA(原文には汽車製造協会)の手で長い貨物列車にエアブレーキと連結装置を取り付けて、実験してみることを説得した。その様子を見ていたある人は次の様に書いている。"長い列車が、バーリントンへ入る前の急な下り坂を時速64kmで突進してきた。そこでブレーキを掛けると汽車は150mも進まないうちに、きしみ音をほとんどあげずに停車した" その輝かしい成果をみて、年老いたコフィンは"私は世界一の幸せ者である"と泣きながら叫んだ……」
ここで実際に何があったかは大いに興味のあるところで、私の"教科書"である小坂狷二著「客貨車工学(上巻)」に当たってみると、次の様に素っ気ない書き方がなされています。
「1886-87年には米国アイオワ州バーリントン付近において客貨車工師協会MCBAが各種制動装置について大仕掛けな試験を行ったが、その結果ウエスチングハウス制動機の真価がますます確認せられるに至った。両年における試験成績は次表の如くである。
両試験間の僅か1年の間に実に瞠目すべき飛躍的進歩がなされたのが見られ得る。これは1887年のウエスチングハウス急動弁出現によるものである」
それではとインターネットで漁ると、次の3つが見つかり、それらしいところを抜き出して部分的に訳してみました。
(1)Lorenzo Coffin and the Air Brake, By Rudolph Daniels
鉄道産業は、新しい発明を採用するのを嫌った。それは高くついて、まだ完全ではなかった。そこで、我々のアイオワ農民、ロレンツォ・コフィンが鉄道コミッショナーに就任して1886年、車輌製造会社を召集しウエスティングハウス・エアブレーキのテストがアイオワ州バーリントン近郊の線路で行われた。それがむしろ急な勾配であったので理想的といえたが、この最初の一連のテストは失敗に終わった。
その翌年、コフィンは2回目のテストを行い、このときは調整とパイプ径の増大によってエアー・ブレーキは、時速40マイルで疾走する50両編成を止めることができた。我々のアイオワ農民、ローレンツォ・コフィンの功績により、ウエスティングハウス・エアブレーキは成功した。
(2)LORENZO COFFIN, by Richard F. Snow
いくぶん戦術を変えて、コフィンは貨物列車でエアブレーキをテストするためにMCBAを説得し始めた。その結果1886年に実験は行われたものの、それは完全に失敗に終わった。2日目において、コフィンは実験に立ち会っているただ一人の州の鉄道コミッショナーであった。
驚異的な粘り強さとエネルギーによって、コフィンはもう一回のテストを次の春予定させた。そして、ジョージ・ウエスティングハウス自身がピッツバーグから駆けつけたが、それはまた失敗であることが判明してしまった。直ぐにウエスティングハウスは何が問題かを見抜いて改善し、50両編成を止める準備ができていると発表した。
そして、次の実験がその晩夏に組まれた。これが失敗したなら、彼らは正しく最後となったことだろう。そして再びウエスティングハウスは立ち会った。コフィンはバーリントン郊外の長い勾配の途中で彼の隣りに立っていた。CB&Qの機関車が下り坂をスタートすると、その後部に50両の貨車が動き始めた。列車が時速40マイルに達したとき、機関士は空気ブレーキを働かせた。貨車は、500フィート以内でガクンと大きく揺れて完全に停止した。
歳を取ってやつれた闘士は顔を涙で濡らしながら立っていた。そして「私は、天地創造以来最も幸せな男だ(I am the happiest man in all Creation)」と叫んだ。
(3)Railroad Historical Almanac 1880-1899
1886年6月13日-8月3日:自動ブレーキ実験がMCBAによってアイオワ州バーリントン近郊で行われる。5つの主要なメーカーが、各々そのブレーキシステムを装備した50両編成を用意し、空気ブレーキと真空ブレーキを対比するテストに参加する。
1887年5月9日-20日:ほとんど同じ実験で、機械式エアブレーキを電気機械式ブレーキと較べる。
これだけでは試験の回数が2回なのか3回なのか、また他にはどういう方式が参加したのか等々、疑問は広がるばかりです。
当然のことですが、MCBAが初めからウェスティングハウス式の採用を前提に試験をしたはずはないので、(3)の冷静な記録は貴重です。真空ブレーキも試験していたことは注目に値します。また、Electro-Mechanical brakeとはどんなものだったのでしょうか。今日的な電気指令式の空気ブレーキではないと思います。
野次馬的な興味からすればMCBAオリジナルの報告書を読んでみたい気もしますが、大部分が無意味な数字でしょうから、エッセンスを読み解くのは至難の技かもしれません。「客貨車工学」で紹介している数字も、時速40マイル(64km/h)の制動距離が693ft.(211m)と、ライフや(2)の文献の500ft.(150m)より長めとなっています。
まあ、気に掛けていれば、いつかは何かに触れることもあるだろうと辛抱強く待つことにしましょう。
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