京阪の色は移りにけりな
The train connecting with the boat Michigan, the Keihan 8005 fleet consisted of 7 cars, a shot at Sekime station. circa 1993
8000系を造ったときの話です。
この車が登場した元々の理由は、三条から出町柳までの開通で到達時分が延びるところにありました。それまで、特急が運用7本で予備2本の9本体制だったものを、ダイヤ編成上から1本を増備する必要が出てきたのです。
よって基本的なデザイン・イメージは既存の車を踏襲するという考え方だったのですが、この際だからガラっと変えるべきだという意見も当然ありました。それで、京阪グループ内ではこういうことに特に造詣が深い、京阪百貨店の中西徹社長に相談したのではなかったかと思います。【写真はクリックで拡大します】
車両部長と共に訪れた守口店で、若かった私はたぶん口角泡を飛ばして、伝統を継承するという自説を主張したことでしょう。一通りの説明に耳を傾けておられた中西社長は、意外な発想を口にされました。
それは、当時の特急列車の停車駅が皆、地下、または屋根の下だということです。淀屋橋から天満橋、七条から三条が地下線、さらに京橋はビルの中です。当時は中書島も丹波橋も通過でした。すなわち、乗車されるお客様は全て、人工的な照明である蛍光灯の下で電車を眺めている。だから、それを考慮したらどうかということでした。
言うなればこれは正に私にとっては渡りに舟でした。従来色でいくお墨付きを得たわけです。
さっそく川崎重工のデザイン担当者と大阪北区にある日本ペイントの研究所にうかがいました。従来色が太陽光で見えるのと同じ色調を蛍光灯下で見える色という注文をしました。もちろん、蛍光管には種類があることを知っていたので、あらかじめ駅で使っているものを調べていったことは言うまでもありません。
その結果は、ほとんど差が無い、あるいは設定不可能、だったかと思います。それで、ほんのわずかだけ明るくしてもらうこととしました。別々に見たのでは気が付かず、色見本を比べると判るという程度です。
それで、8001編成の方には新色、3000系7連化用の中間車5両には従来色を塗ったのです。
因みに、当時の定期検査で3000系に使っていたものと、昔の1963年(昭和38年)製1900系新での色見本を比べたら、全く区別がつきませんでした。塗料メーカーの調色技術には本当、驚きます。
ところで、この蛍光灯下云々の話をどこかで披露したかと、雑誌を確認してみたものの、ちょっと判りません。
そんな中で、鉄道ファン誌1989年10月号の新車紹介記事は、余りの気負い振りに赤面です。通例的には使用機器や性能を中心に語られているというのに、それを省いて、ひたすら思い入れだけをまくしたてています。
読み直して引っ掛かったのは「京阪のフラッグ・トレイン」と称するクダリです。英語では「flagship」、すなわち「旗艦」ですから、当然「フラッグシップ・トレイン」としなければいけないところでした。あちらの文献で目にしていて使おうとしたのですが、シップ=船と、トレイン=列車ですから、可笑しいと言われないかと心配したのですね。当時は未だ、文字通り、人口に膾炙(じんこうにかいしゃ)していない言葉だったと思います。
以上、若いという字は苦いに似ているという記憶でした。
■中西徹著「うだつ-その発生と終焉」という本があります。ご参考まで。
【追記】蛍光灯と調色についてdda40x氏よりいただいたメールを紹介します。思い出してみると確か、20年前の日ペでの話もこんな風だった様な気がします。2009-08-03
蛍光灯の下の色とは面白いことを伺いました。
ペンキ屋の話では、晴天でも曇天でも、蛍光灯下でも人間の目は同じ色に見える(ように頭の中で補正している)ようです。
ペンキの調合は蛍光灯下でやります。もっとも、色見本を持って行ってそれと同じになるように混ぜるだけの作業ですから、同じ色に見えるようにするだけです。
心配になって、戸外でやらなくてもよいのかと聞いたところ、「絶対大丈夫」とのことでした。
……カーマイン・レッドについてのdda40x氏とskt48氏のお話は、前々回の記事へ追記の形に変更しました。
【追記2】巷間で「8000系から色調が変わった」といわれている情報源が判明しました。登場時の紹介記事が掲載されている"とれいん"誌1989年9月号p82に、「今までより一寸鮮やかにされている」との語句がありました。口を滑らせた犯人は……。
なおこのレポートには、搬入から整備、試運転までのバタバタがあからさまに捉えられています。p66では、標識灯の縁に黒スジが無い点と、京都寄先頭車の鳩マーク地色が空色なこと、p88ではスカートの形状変更ですね。
ただしスカートは、コメントにある「隙間を埋めるための」当て板では無くて、中央部の曲げRがキツすぎたものを、柔らかい感じを出すために少し大きめのR10mmとしたのです。2009-08-03
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コメント
こんにちは。コメントありがとうございました。
「黄色と赤は特急のしるし」で親しんだ世代ですが、京津線の60形や260形の特急色も同じペンキだったのでしょうか。
模型に塗るときは、面積の違いもあってか、実物通りの色では濃くなりすぎるようです。少し白を入れたりして調整したこともあります。
>>ペイントは資材貯蔵品で、テレビカーも、びわこ号も、さらに男山ケーブルも皆同じです。そして、色見本による調色がしっかりしていますので、1700系から3000系までは塗料自体に色調のブレは全く無かったはずです。
ただし、塗膜の劣化という問題があります。私は塗装が専門ではなかったのでうろ覚えで申し訳ないのですが、1950年代で2、3年、1970年代で4~6年、1990年頃で8~10年ぐらいで全体を塗り替えていたのではないかと思います。ですから、塗装直前と直後とには雲泥の差があります。退色や白粉化(チョーキング)など、昔の塗料は劣悪でした。
見栄えで一番大きく出る元凶は、表面のツヤでしょうか。それと、これは全くの私見ですが、塗膜表面に出来る透明層の性質も大きく影響すると思います。ハイソリッド・ラッカーからポリウレタン塗料に代わったら、太陽光下では少し青みがかったように感じました。当時は担当者が各社のフッ素系を盛んに試していました。【ワークスK】
投稿: ヤマ | 2009/08/08 15:26
駅名捜索ではお世話になりました。
塗装のツヤは影響が大きいですね。吹田工場の横を通るので、ときどき塗り立ての485や113を見ることがあります。本線を走って少し時間が経って見慣れた雷鳥などに比べると、塗装直後は色も濃く感じるようです。
某四国の電車の模型を塗るため実物を見に行ったときは、どの色に塗ればよいか迷うくらい褪色の影響が出ていました。
無塗装車が増えてきたら、塗装技術も伝統産業化したりして…。
>>ツヤがあると周囲の風景が写り込みますから、濃い色はさらに……。加えて、鋳鉄制輪子使用では鉄粉が塗膜に食い込んで錆びます。【ワークスK】
投稿: ヤマ | 2009/08/10 23:19