明治人の乗ったアメリカの寝台列車
国立国会図書館の近代デジタルライブラリーに、1900年にアメリカを巡った文筆家と思しき人の旅行記がありました。松井広吉著「米国漫遊雑記」東京:博文館、1901年(明治34.1)刊という本です。
この寝台列車に乗った章が面白いので、例によって読みやすく加工してお見せします。
写真版も添えられているのですが、鉄道に関係のないものばかりで、しかも不鮮明ですので、手持ちのJohn H. White, Jr.著"The American Railroad Passenger Car"から、1900年前後のものを選んで添えてみました。客車は木造で、この後に鋼製車のヘビーウエイト時代になるのだと思います。【画像はクリックで拡大します】
第2 愉快なる汽車旅行
アメリカの汽車は世界第一で、その客に便利なこと外に比類が無いほどで、ただ入浴が出来ぬばかり。何でも備わっていて、ほとんどホテルに住むと一緒である。したがって汽車旅行は実に愉快なもので、日本のように窮屈でも不便でも無い。
汽車の乗車券を買うのに、ちょっとした近いところや、半日か一日路くらいなところの切符なら、日本同様停車場で売り出すが、長距離、殊に幾つもの会社を経ていくところの切符(例えばサンフランシスコよりシカゴ、またはニューヨークまでのごとき)は、各会社の支配人があって、その店で売り出すのである。上中下の等級によって切符の有効期限にも長短がある。
この切符は細長く繋ぎ合わせたもので、車中でときどきコンダクター(車掌のようなもの)が改めたり、別会社の線路に入るとき、その既に経過した分の切符を切り取ったりするが、馴れたるもので、所持の客が眠っているときなどはコンダクターが客のポケットから引き出して良いように始末してくれる。またこの切符には買手自筆で姓名を記するのが例である。
上等と中等の客は寝台車を買うことが出来る。普通の客車だと時々所々で乗換えをせねばならぬが、寝台車には一切そんな面倒が無いから、馴れぬ者などは殊に便利だ。
以前は各会社競争して賃銭を安くするのが例で、夏季避暑客の外、余り客の無いときなどは法外に安くするものであったそうだが、去年(1899年)から各会社申し合わせて総べてこれを見合わせた。しかし切符には日本のように賃銭高などを記してない。
宣教師は上等切符を買うものに限って半額だけ割引される。汽船でもまた多く割り引きする例であるが、日本の坊さんはこのような特典を持たぬ。
鉄道は無論広軌であるが、停車場には日本のようなプラットホームが無いから、客車を昇降するには踏み台が必要である。
この停車場が素晴らしく広大なもので、殊にシカゴ、ピッツバーグ、フィラデルフィア、ニューヨーク、ワシントンなどは十余の列車がズラリと並ぶこともある。いずれもガラスで屋根を覆って、汽車の乗降口へ出る所の境には鉄柵で囲われている。
機関車は非常に大きくて牽く力もはなはだ強い。これは万事に改良進歩を好む米国で、鉄道改良点の幾んど最大眼目とされているところである。機関車には真鍮製の釣鐘がありて、停車場へ発着毎に、ガランガランと喧しく鳴らされる。これも日本には見ないところだ。
機関車も大きい、鉄道も広軌であるから、速力は驚くほど早い。日本の汽車は新橋神戸間の急行列車が日本一の速力だというけれど、1時間20マイル【32km/h】と少し余分に走るに過ぎないが、米国のは普通が1時間40マイル【64km/h】で、急行となれば50マイル【80km/h】からの速力である。すなわち日本のものの倍以上ぢゃ。
米人が速力を早くするに注意するのは至れり尽くせりである。長い間停車せぬと水が不足するから、これを補足するため余儀なく停車して水を注ぎ込むなど普通の仕方であるが、セントラル鉄道のごときはそんなことをせぬ。鉄軌の側に半マイルないし1マイルぐらいの小溝を掘りて、水を溜めておいて、汽車が通りかかりに少しばかり速力を緩めたまま、ゴムの管で小溝の水を汲みながら走る。かような小溝が3つも4つもある場所も見える。
下等室といっても、日本のもののようにお粗末ではない。中央の通路左右に前向きとなっていて1脚に2人ずつ腰掛けるべき席があるが、どれも厚天鵞絨(厚いビロード)で覆われて、車中の装飾も至極綺麗で、日本の上等室より遥かによろしい。ただし短距離を折り返す汽車には通例、上中下などの等級が無い。あるのはたいてい一昼夜以上の長距離間だ。すなわち寝台車を連結するようなものに限る。
寝台車には上中の2等ある。上等は至極綺麗で窓と窓の間には姿見の鏡があったり、万事華やかに綺麗であるが、中等は腰掛が籐を編んだものであって、他の装飾も質素である。
寝台車には談話室もあれば喫煙室もある。散髪室もある。食堂は無論付属してるが、ただ南太平洋鉄道(サンフランシスコからオグデンおよびポートランド、サンディアゴ等の間に通ず)だけは食堂も散髪車も無い。鉄軌も粗末で、客車もまた割合に粗末で、到底ペンシルベニア鉄道、セントラル鉄道に比べることが出来ぬ。
食事時にはウエイター(給仕)から知らせて来る。食堂車へ行くと、窓に薄いレースなどを掛けて万端装飾を凝らしている。食卓の上には花が活けられている。献立表もある。多少に拘わらず1食1ドルのものもあれば、1品幾ら宛としてあるものもある。ただし、1人前25セント(日本の50銭)以下はお断りとしてある。中々美味いおつなものを食わせるし、牛肉牛乳などは殊に新鮮だ。勘定を済ませてから給仕に何ほどかずつやるのは申すまでも無い。
もし食堂車が無い列車なら、食事頃に着く停車場に必ず料理店があって、1食75セントとか、50セントとかまとめてありて、食物が並べられてあるから、15分かそこらの停車中にユックリとこれを片付けることが出来る。この料理店はロッキー山中、三家村裏の僻地でも必ずあるから、食事に不自由するようなことは無い。
倹節しい人はパンだのジャムだの牛肉の缶詰などを持参して汽車の中で事を済ますのもある。これにはイスを向かい合せて(寝台車のイスは1人1脚ずつ向かい合って座るようになっている)その間へ片足付きのテーブルを置いて、その上で弁当を開くのだ。寝台車に付属しているボーイに頼むと、そのテーブルを持って来て、窓際の穴(特に作られている)へ挿んで上手く据えてくれるし、茶やコーヒーだけならこしらえてもくれる。また停車中、自身で好きな食物を買って来ることも出来る。
散髪室には床屋一切の器械薬品があって、散髪屋先生巧みにやってくれる。余は試みに散髪髯剃り髪洗いをやらせて1ドル90セント(3円80銭)を取られた事もある。便利は便利ながら、高いともまた高い。
談話室には安楽イスもある。新聞雑誌の綴じ込みもある。喫煙も出来る。東西の人種相集って種々の駄法螺やら名論卓説やらの吹き合いで、半日討論会で暮らすこともある。
読書室には種々の書籍があるし、車中に貸し本屋も乗っていて見料を出せば小説でも何でも貸してくれる。また記録室もある。机、筆、インキや用紙、封筒まで備え付けてあるから、いつでも手紙を認めることが出来る。
贅沢な人はパーラー車というのに乗る。これは車室に立派な柔らかな敷物が敷いてあって、イスも作り付けではなく普通の籐で編んで、天鵞絨(ビロード)で被った座り心地の至極良いので、そこへテーブルを据えられてあるのみか、向きを変えることも移すことも自由自在で、普通住宅の部屋と少しも変わりが無い。
また寝台車の一隅を仕切って4人ないし6人で借り切るのもあるが、これは他から見えぬから昼夜起き臥し共に自由である。病人とか、外国の客で傍の目に触れるのを嫌がるものには極めて重宝なものぢゃ。
寝台車には給仕が一人ずつ付属しているが、これが帽子、外套の芥掃いから靴磨きまでしてくれる上、万事、客の用をなす。夜になると席の上に当たるところを降ろして釣床を作り、下の向かい合っているイスを繋ぎ合わせて寝台として釣床の中から白布に包まれている布団枕を取り出して、上(釣床)と下とで、2つの寝台を拵えて、上から幕を降ろして、中の見えぬようにする。
この上(釣床)と下が同じ番号で、寝台車の切符にその番号が記されているから、照らし合わせてその席を取る。同行者ならばなるべく同じ番号を選んで上下を好みのままに選ぶのぢゃ。もし同行中に婦人がいるとか、唯一人旅で、婦人と同番号の席であったら、婦人に下の寝台を譲るのが例だ。
幕をくぐって寝台へ上がってから洋服を脱ぐ。寝巻きを着替える。ずいぶん窮屈のようぢゃが慣れると何とも無い。西洋人は総べて寝巻き姿や肌を他に見られるを恥辱かつ無礼とするから注意せねばならぬ。
汽車中で便利なのは鳥打帽子と上靴を持参することである(船中でも同様)。ツバのある帽子を車中で被り通すのは窮屈で、そうかといって無帽でも宜しくない。また夜中小用に行くときなど上靴があると至極便利で、昼でも自席にいる間、上靴にに履き替えていると大いに楽であるからぢゃ。
朝起きるとウガイに行く。ここには小さな顔洗い台があって、ネジ仕掛けで水が出る。鏡はもちろん、手拭、石鹸、ブラシ、櫛、皆備えられている。ここで一通りお粧を済ます。間に例のボーイが床を挙げイスを直して、元の通りに仕立てて置いてくれる。
客車の窓は2重ガラスである。夏は砂塵の吹き込むのを避け、冬は凍って割れるのを避けるためだ。屋根の中央には横に風入れがあって、ボーイが注意してこれを開閉し汽車の後部の方へ向けるようにするから、日本のようにここから石炭の煙が吹き込むようなことは無い。
客車中で夜分は電灯かランプを点けるが、いずれも数が多いから日本のようにボンヤリと薄暗くは無い。またイスの下には鉄管が通っていて、冬分になるとここへ蒸気を通わせて、車中を暖めるから、窓外は降雪紛々零度以下2、30度という酷寒でも車中は6、70度の暖かさで、春の季、夏の初めのような心地がする。
かように万事整って便利であるから旅行中の苦しみなどは毛頭も無い。このようにしてヨセミテの大森林、ナイアガラの大瀑布、ロッキー山の高峰深渓と、何でも千里一瞬飛行して見物し回れるその愉快は例えるものも無い。機転の利く人などは昼中市街で見物やら用足しやらして、夜だけ汽車中で寝て、巧みにホテルの宿料を倹約することもある。
それにまた重宝なのは、エクスプレスメンという物品配達者があることぢゃ。到着駅の2、3駅前(新橋ならば大森品川とか、上野ならば赤羽とか王子とかのごとき)から制服を着た男がエクスプレス、エクスプレスと触れてくる。これに自分の宿所(宿泊すべき家、ホテル等)と、荷物の数(トランク幾個、カバン幾個)を記してやって、汽車へ荷物を預けて受け取っておいた切符を渡すと(携帯の手荷物も同じ手続きで宜しい)受取書をくれるが、この男、汽車から荷物を受け取って、早速宛名の宿所まで届けてくれるが、早いのは、その日大抵届いて、しかも間違ったことが無い。その配達料といっても大小拘らず、トランク、カバン1個大抵25セント辺りである。
ついでに言っておくが、このエクスプレス、すなわち物品配達は市中に必ずあって、引越しにも旅行にも皆速やかに荷物を届けてくれる。賃銭も同様で至極便利である。東京などでも是非このようなものが欲しいものぢゃ。
ゆえに、銭さえあれば何の心配もなく力一つ出さずしてさっさと千万里の旅行が出来る。日本人で英語も出来ず、英文も読めぬながら、帽子にシカゴ行きと書いておいて、汽車の係員へよく頼んだら、何の障りもなくいけたという話もある。
米国の鉄道はクモの巣のように布かれてあって、いやしくも都会であるか、左もなくても見物すべき場所、避暑避寒の場、海水浴または名所旧蹟のある所といえば必ず鉄道を布いて汽車を通わせる。また珍客があれば無造作に特別仕立ての汽車を発する。決して日本のように手重では無い。
余はニューヨークで大岡育三氏に従いて上田豊三郎氏と共にブルックリンのロングアイランド鉄道に招待せられて、その特別仕立ての汽車で全島中を一周したことがある。ニューヨークの鉄道雑誌の記者と、会社の役員1名が同行で、海水浴場のある大西洋の波濤の打ち寄せるところなどを見物したが、この汽車は機関車にただ余等を乗せた1客車を繋いだのみのものであった。
セントラル鉄道と共に米国最良の鉄道と称せらるるペンシルベニア鉄道会社では、毎年1回特別列車を仕立て、パーラー車(最上等の客車)に山海の珍味、腕の利いた料理人などを載せて、重役一同が会社の全線路を乗り回り、保線の具合がよくて、修繕掃除等間然する所無いものへはその係員へ賞金を与えるということぢゃ。
ニューヨークは米国一等の繁栄市だけに、多くの鉄道が縦横に通じている。併し日本ならば九州でも中国でも、東海道を経過して来る汽車は皆新橋停車場に集まるし、奥羽でも信越でも日本鉄道線を経過するものは皆上野停車場へ着くけれど、ニューヨークでは同じシカゴから来るものでもセントラル線もあればペンシルベニア線もある。殊にペンシルベニア線の停車場はハドソン川の対岸にあって、ここから船でニューヨークへ来るにまた3個のステーションがある。さようの事を知らなかった余が失策を今懺悔しよう。
シカゴからニューヨークへ向かうとき、三井物産会社支店へ何時何分の汽車に乗るとばかり電報して、やがてペンシルベニア線ですぐ川向こうのステーションへ着いたけれど、誰一人迎えていてくれぬ。多分朝早いから誰も来ぬのだろうと思って、先方へ着くと大言小言を頂戴して、線路の名が電報に無くて判りかねたけれど多分セントラル線だろうと社員をその停車場へ出して、3時間も待たせたが空足であったということぢゃ。
サンフランシスコ・ニューヨーク間、太平洋岸の東の端からアメリカ大陸を横断して、大西洋の西の果てなるニューヨークまで、3,500マイルの間、僅かに5日で行けるようになった。しかも約1日、シカゴへ逗留した上で
それで各会社が客を引くことに念を入れるのは感心である。客の待遇をよくするに常に肝胆を砕き、また速力を早めて客の便利に、客の気に入るように気に入るようにと努むる上に、線路図、発着時間表および沿道風景の写真画などを挿入して印刷したものを各切符売り捌き所はもちろん、大抵のホテルに備え置いて、何人にも自由に取り去るに任せておく。
■当時のアメリカ鉄道は、自動連結器と自動ブレーキが行き渡り、またプルマン寝台システムも佳境を迎えつつあって、まあ、当時の日本とは雲泥の差があったわけです。著者は正に夢のような日々を送ったのではないかと思います。なお、ウォーター・スクープの描写に一寸首を傾げますが、実際、どうだったのでしょうか。
【追記】本書の表紙にある「松井柏軒」で検索すると経歴をヒットしました。新聞記者で生没年が1866-1937ですから、渡米時は34歳の働き盛りですね。2010-06-27
【追記2】引き続き本書の「第5 市街鉄道車」と「第40 汽車汽船の連絡」の章をタイプしてみました。2010-08-30
| 固定リンク
「日本語本やぶにらみ」カテゴリの記事
- とれいん誌03年4月号 NAPMのコンクール作品(2005.02.05)
- PAM誌第4号はバッド社RDCの知識が満載(2004.12.03)
- 鉄模連ショー2002大阪で"ポップ・アメリカン・モデラー"(2004.11.05)
- GEとGM(EMD)の経営者と鉄道(2004.07.02)
- ヴィンテージ鉄道模型大全(2004.04.01)
「客車も楽し」カテゴリの記事
- スカイトップ展望車の水上レストラン◆高田寛氏のお便り(2021.03.28)
- 転換クロスシートの探求(8)(2018.06.06)
- 転換クロスシートの探求(4)(2018.05.22)
- 転換クロスシートの探求(3)(2018.05.21)
- 転換クロスシートの探求(2)(2018.05.18)
コメント