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2010/07/17

明治人の見物した費拉特費万国博覧会(2)

Horse tramways that the Japanese of Meiji-era were sightseeing during the Philadelphia Centennial Exposition in 1876, part 2

 前回紹介したフィラデルフィア万博の馬車鉄道ですが、この辺りの写真をネット上で探し回っても適当なものが見つかりません。1900年前後の蒸機高架鉄道はソコソコあったのですけれど、その20年前には未だ写真術が普及していなかったのでしょうか。同じ明治といっても、時代の進歩はあるものです。
Img500b

Brill_book で、思い出したのは、この地がブリル社の本拠だったことです。
 同社は、日本では台車でお馴染みの電車メーカーですが、初期にはケーブルカーや馬車を製造していました。
 Debra Brill著"J.G. Brill Company"2001年刊を紐解くと、なんと、ものの見事に1876年の万博に鉄道馬車を出展したと記されていました。写真もあります。【画像はクリックで拡大します】

 万博の開催されたウエスト・フィラデルフィアのフェアモント公園fairmont Parkが、ブリルの工場から約2マイルの距離だというのですから、力が入らないはずが無いわけです。
 冒頭の写真は、閉幕後にメインビルディング前で撮影されたもので、BostonのBeacon Street Railway向けの納入を待ってもらって展示した様です。

Img501bJohn_stephenson
 ブリルのほかにも2社が出展し、John Stephenson Companyはニューヨーク市向けの普通車とウエスト・フィラデルフィア向けの小型車を持ち込んだとのことで、車内写真はそのどちらかです。1888年版Car Builders' Dictionaryに掲載された同社広告をTrain Shes Cyclopedia No.25から転載しておきます。
 もう1社はニューヨーク市West TroyのJ. M. Jones & Companyで、ボストンの"The Highlands"と呼ばれる地域で運行する車だったとのことなので、ブリルの車とは競争関係にあったのかもしれません。同社製電車の写真が1898年版Car Builders' DictionaryからTrain Shes Cyclopedia No.25に収録されています。

 次のオープンカーはブリル社の1887年製で、コネチカットのFair Haven & Westvill Railroad向けです。この写真で、「板道を伝って銭券を売りに」云々という前回の説明を理解していただけるものと思います。
Brill_open_horsecar

 なお、"The Centennial Exposition described and illustrated"という、展覧会事務局の手になると思われる絵入りの報告書が、Open Libraryというサイトからダウンロードできます。
 このCHAPTER XI、p354の、Railway and Horse Carsというカテゴリーには、蒸気鉄道ではThe Sharp Pullman and Wilmington Car Companiesが唯一の出品者でどうのこうの……。馬車は幾つかの製造社が出展したが、注目すべきはただ1社で、馬の衝撃を緩和する新案がどうのこうの……と言っている様ですが、我々が望む写真やイラストは掲載されていません。

 さて、近畿大学九州短期大学図書館の研究紀要2009年「日本の出品にみるフィラデルフィア万国博覧会(1876 年)とパリ万国博覧会(1878 年)の関連(pdfファイル:リンク切れ)」に、派遣された人物の一覧表がありました。

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 西郷従道などというビッグネームの中に、報告書を書いた大森惟中の名もあります。ネット上にこの博覧会に参加したとの記述が見つかる者は、田中芳男(博物館創設に尽力:リンク切れ)、石田為武(陶芸発展に寄与)、真崎仁六(鉛筆工業の創始者)、徳川昭武(徳川慶喜の弟)などです。

 博覧会と直接的に関わりがある記載が見つかる人物は、関沢明清が、サケマスの人工孵化技術を会得。池田謙蔵が綿作調査、養蜂,桃缶詰技術の導入。納富介次郎が漆芸、速水堅曹が絹糸関係の審査員。手塚亀之助、深海墨之助、深川卯三郎の3名と、その通訳の江副廉蔵が、香蘭社から有田焼を出品したことなどです。
 リスト末尾のカタカナ3名の内、ゴットフリード・ワグネルDr. Phil. Gottfried Wagenerはドイツ人で、日本の博覧会参加に多大な貢献をしている様です。

 博覧会を見物した人物もいました。田中不二麿は、当時の文部大輔、文部大臣です。金子堅太郎は後に伯爵、帝国憲法の草案等々、伊沢修二は教育家で、万博開催時は共に留学中だったとあります。
 さらに「畠山義成~短い半生」というサイトでは、この万博に日本が参加した事情の一端が語られています。前述の人名もフンダンに出てきます。

 文明開化となって、たった9年、いったい、どれほどの人が訪問したのでしょうか。その見聞がこの国を大きく動かしていくことになったわけです。

 一方、万博のメモリアルホールが転用されてフィラデルフィア美術館が創設されています。また、この万博を舞台とする小学校高学年向け冒険活劇「フィラデルフィアの冒険」などという本もありました。
 上海万博の「開幕式物語」というページに拠れば、このフィラデルフィア万博によって、それまでの農業国というイメージが、蒸気機関の開発もあり、一転して新時代の工業先進国に仲間入りと変わったと記されていて、アメリカにとっても歴史的な転換期を象徴する催しだったことがうかがい知れます。

【追記】保存されている鉄道馬車、ホースカーを紹介する「LAのトラベルタウン博物館(3)」もご覧ください。2010-12-22

【追記2】東京馬車鉄道の思い出を語られた文を発見しました。鉄道ピクトリアルの昭和30/1955年7月号掲載で、「鉄道馬車・人車・軽便鉄道(堀内敬三の鉄道趣味1)」です。東京の馬車はニューヨークの中古だったので、独特の1,372mm軌間になったという記述があります。北山敏和さんという方のHPです。2011-08-04

【追記3】日本政府がこの万博の時期、輸出向として工芸品に力を入れていたという内容をTBS系MBSテレビの「所さんの日本の出番!」という番組でやっていました。海外から買い戻したコレクションを「清水三年坂美術館」で展示しているとのことです。2016-05-10

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