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2010/09/22

流線形テネシーアンの奇妙なサザン物語

A Strange "Southern" Story by Otto Kuhler in his "My Iron Journey, An Autobiography of A Life with Steam and Steel" published in 1967. This model, the Tennessean, a streamlined steam locomotive of Southern Railway. was manufuctured by Weaver in 1996.

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 Kevin J. Holland著"The Steam Liners"等に拠れば、流線形1380号機は、サザン鉄道が1941年5月17日に登場させたテネシーアンの牽引機です。全運行区間であるワシントンDC・メンフィス(テネシー州)間の内、ワシントンDC・モンロー(リンチバーグ)間165マイルを担当しました。ちなみにモンロー・ブリストル間210マイルはN&WのクラスJ、ブリストル・メンフィス間552マイルはディーゼル機DL-107やE6Aが牽引し、客車はプルマン・スタンダード製9両編成が3本、用意されたとのことです。
 同機は52年6月29日に終焉を迎え、解体されました。【画像はクリックで拡大します】

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(サザン鉄道路線図の出典は"World Railways 1952-53"です。関係する地名にグリーンの印を付けておきました)

その1 オットー・クーラーの自伝では

 1941年のクリスマスを2、3日後に控えたある日、我々はサザン鉄道が計画していた2本の新しい特急列車の話をした。それは最新式のディーゼル機を売り込むチャンスのはずだった。
 ただ、ワシントンDCからシャーロッツビルまではノーフォーク&ウェスタン鉄道の線路を走ることが問題だった。同鉄道は石炭供給業を手掛けていて、ディーゼル機を通過させることに同意しないと予想された。

 それなら、SRのパシフィック機を何両か流線形にして、N&Wの線路上で使うというのはどうか?……これはグッドアイデアに思えた。

 しかしそれは、クリスマスイブである土曜の朝に仕上げなければならないという、恐ろしいまでの日程だった。信頼する我がアシスタントのJ. H. Barrと共に、パシフィック機の側面図を描いた。特許出願代理人に渡す複写を撮影したいと思ったのだが、すべては遅過ぎて、あらゆるものが閉ざされていた。ワシントン行の寝台車に乗る時間だけが残っていたのだ。
 クリスマスイブの街に繰り出すことは腹立たしく、翌日のクリスマス当日は家族の下へ帰ろうと心に固く誓うことが唯一の慰めといえた。友と私は寒さに耐え、クラブカーの上でスコッチとアスピリンと、さらにナイトキャップで安らぎを求めようとした。

 良い天気となった翌朝、サザン鉄道のオフィスには早めに着いた。そして、提案は熱狂を持って向かい入れられた。彼らの望むままにイラストを渡し、我々は昼一番の列車に乗ることができて、クリスマスを家族と共に過ごせることとなった。

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 その後、2、3ヶ月の間、事務所の外に出る仕事が続き、サザンのことはほとんど忘れていた。
 それが、ある日、私の列車がワシントンから出発したのだ。美しいグリーンを見て私は夢の中にいる気分だった。上から下まで、さらに砲身は、100%が私のデザインなのだ。
 ディーゼル機担当の同僚に開口一番「サザンの注文は取れたのか?」と尋ねた、その答は「ノー、駄目だった」であった。私は「いずれにしろ、彼らはデザインをフルスケールで写したのだ」と応じた。

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 今思えば、アイデアが採用されて、古い機関車に最小限のシュラウドが追加されたということだ。しかし私は、この意匠を作業工場の勝手な改変で台無しにすることなく、完璧な形で立体化してくれたことに、むしろ感謝している。

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 以上はオットー・クーラーの回顧録"My Iron Journey"の中にある「Strange "Southern" Story」と題された一文の抄訳です。
 最初の会話が「1941年」という点と、走らせようという区間が「ワシントンDC・シャーロッツビル間のN&Wライン」という点は記憶違いとしても、まさに奇妙な話で、これではデザインの盗用となってしまいます。時はインダストリアル・デザインが普遍的になりつつあった頃ですから、サザン鉄道が権利関係に疎かったとは到底考えられないし、クーラーがクレームを付けなかったのも変です。
 元となったイラストが自伝に掲載されていればハッキリするのですけれど、残念ながら実機の写真があるのみです。

 彼はアルコの専属デザイナーでしたから、日本流に考えれば、前後に購入したディーゼル機関車の価格にそのデザイン料がオンされていた……といった辺りでしょうか。

 1941年といえば第2次世界大戦の真っ只中で、こういう列車を走らせられたことに驚きます。34年から始まった戦前の流線形時代の終末期を飾るというか、クーラーも数多くを手掛けてきて、蒸気機関車という機械の制約を理解できるようになっていたはずです。それで、ノースカロライナのSpencer工場もデザインを手直しする必要が無くて、そのまま立体とできたという面があったのだと思います。Robert C. Reed著"The Streamline Era"のp187に拠れば、クーラー自身がこの機関車を"My Best Job"と呼んだそうです。

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 列車の詳しい解説は、Mike Condrenという方のサイトにあって、サザン鉄道歴史協会会報からの転載など、機関車から客車、編成の情報に事欠きません。中には1380号機のカラー写真【上は当方が修正】まで出ています。
 トレインオーダーズ・コムには「乗った!」という人のコメントがありました。

その2 ウィーバー製の3線式モデルは

 数あるアメリカ型流線形の蒸機中でも、この砲弾型はピカイチです。1996年にウィーバー社から発売されたときにはもちろん2線式もあったのですが、出物は3線式ばかりでした。それで、シビレを切らしてこちらを求めてしまったというわけです。

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 3線式ですからハイフランジということで、当然、動輪径がスケールよりも小さくなっていないかと心配になります。届いた荷物を解くのももどかしく、ノギスを当ててみると、41.3mmです。48倍して25.4で割ると78inchとなります。
 一方、実物は73inchですから、なんとモデルの方が5inch、2.7mmも大きいこととなります。
 何か既成の金型を流用したのでしょう。まあ、車輪径が大きい方が見栄えはします。

 それにしても、この3線式は巧みな構成です。真ん中、第2動輪のフランジレス化は急曲線を通過させることが主目的ですが、これによって第1と第3動輪をハイフランジとしても、軸間距離と動輪径を弄る必要が無くなっています。また2組の集電ローラーが第1、第3動輪にモノの見事に隠れ、第2動輪には伝動ギアが自然な形で組み込めています。
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 一方、2線式へのコンバートには悩みます。
 まず、タイヤの填め換えを引き受けてくれるところを探さねばなりません。また、スケール通りの73inch動輪を入手できたところで、ボディ高さやシリンダー中心を合わせる必要が出てきます。

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 先従台車とテンダーだけでもと思っても、全てEリングで組み立てられていて、私の手で分解、再組立するのは難しそうです。
 この辺り、経験者がおられましたら是非、ご助言をお願いいたします。

 ところで、この機関車が牽引した客車は、プルマン・スタンダード社製のステンレス外被で、テンダーの変わった塗り分けはそれに合わせている様です。
 客車を揃える気は毛頭ないし、私の手の中ではこのままレプリカで終わる気配です。

 Oゲージの玉手箱にもう少し写真をアップしておきました。
 クーラーの自伝"My Iron Journey"には手掛けた作品以外にも、NordからUPチャレンジャーまでの写真やイラスト、油絵がたくさん掲載されていて、蒸気機関車への愛着が滲み出ています。"Locomotive"という写真集を著したレイモンド・ローウィと相通じるところがありますね。

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コメント

Eリングは、2つある細長い穴の一つに時計用マイナスドライバーを垂直に差し込んで、リングが開く方向に回すと外れます。
飛んでいかないように指で押さえながら回してください。
戻すときはラジオペンチで軽く挟みます。

>>御教示ありがとうございます。一度やってみます。Eリングの掛かり代は僅かですから、下手に弄って外れ易くなるのではないかという恐怖心が先に立ちます(笑)【ワークスK】

投稿: YUUNO | 2010/09/24 03:52

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