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2014/06/23

京阪大津線に500型ができた頃

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1974年4月、竣功直後の500型第1編成

Train201407 1年ほども前だったか、新宮琢哉氏から電話があった。とれいん誌に大津線車両の記事を書くという。20ページというから、全部でかと問うたら、1つの型式で。まず500型との答えには、驚くまいことか。
 新入社員時代に深く関わったので、愛着は人一倍。ただし、それほど大きく取り上げる価値があるかのは全く疑問。雑誌社もモノ好き、といった辺りが素直な感想。

 ということで、2014年7月号【画像はクリックで拡大】

Keihan79図面のこと

 これについては、以前にも書いた。34年も前の1980年に発行された「京阪電車・車両70年」のために描いたもの。もちろん、原図は京阪電鉄が保管しているのだが、提供できないという。折りから、くずはモール街での展示に一式が使われたためなのか。(3505号車展示の話は掲示板

 それで、スキャンしていたJPGファイルを使った。あちこち違うと新宮氏に御教示いただいて、修正した。MSペイントという、ウィンドウズに付属のソフトを使っているで、大したことはできていない。

 錦織車庫の工事現場にはほとんど行っておらず、氏の写真を見せられて納得。まあ、若い頃の古傷を消し去れて正直、安堵。

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Tp197908cover鉄道ピクトリアルの記事

 この電車は改造だったにもかかわらず、原稿依頼が来た。掲載は1979年8月号。写真と本文を合わせて6ページに加え、表紙にも登場してしまった。この写真は、広報課に好きな方がおられて、マミヤプレスでの撮影。その横で当方が撮影したものが雑誌のp7(この記事の冒頭のもの)。背景や影の様子が一緒。視点高さを意識して変えた記憶がある。ワイパーブレードの位置が反対なのは、写真でのバランスが悪いからと手で動かしたのではなかったか。

 で、記事は車両部長の名前になっている。ただし、書いたのは当方。読んでいただければわかるが、完全にファン向け。路線の特徴や運用について熱く語っているあたりがある種の意思表示。
 唯一手直しされたところが、「500系」の「系」。「これからは、こういう風に」とのことだった。だから、本文中にも「60系」、「80系」、「260系」。ただし、個々の型式が「形」。
 まあ、当時も今も意味不明。この呼び方は、この記事だけ。

前面改造を担当

 なんと入社3年目の小生に御下命。まあ、ベテラン連中は京阪線の2000系冷房昇圧準備工事で忙しかった。
 さて、従来車の貫通構造の欠点は、運転台が狭いことと、冬季の隙間風。それにもかかわらず、3000系特急車イメージのスケッチを押し付けてきた奴がいた。アホか!

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284号車は504号車のタネ車 1978年錦織車庫

 そして、併用軌道での運転士の目線を観察して、左右の視界は従前どおりでも十分と判断。現場も納得。正面2枚窓に煮詰まっていく段階で、「ガラスを傾けろ」と上司が言い出した。どうもイメージは湘南電車顔。おいおい、そりゃあ時代錯誤。機能的には、オデコ付近の体積が減って、機器の取付スペースが無くなってしまう。じゃあ、「前方に少し車体を延長してもいいか」と尋ねてみた。要は、後年、600型でやる手法。当時そんな当社事例は皆無だったから、即、「ダメ」という応答。
 その上司と国鉄石山駅のホームで電車を待っていたら、EH10の貨物列車が通過。あれでどうかと探りを入れたら、「ふむ」とか何とか呟いたので、これ。

 なお当方の原案は、窓と行先表示器、それに車番を一体の面として少し窪ませ、濃緑とする。他の面はすべて淡緑で外部塗装を簡略化しようというものだった。側引戸だけは、西武に倣ってアクセントとして別色の濃緑とすることも考えた。
 前面は、同じ頃にできた都電7000更新車と同じ発想。近鉄ナロー線でも似たような電車が出てきたから、その頃になにかヒントとなるものがあったのかもしれない。前者にはデザイン的に負けたと感じた。記憶が不確かだが、そのアイデア・スケッチは近車で見せられていたはずで、実際のメーカーがアルナで驚いた。

 隅柱と屋根回り、それに台枠をそのまま残して、鋼体図面は至って簡単。腰の部分は2.3mmと4.5mmの鋼板を重ねて、衝突事故対策。さらに帯鋼で井桁の補強を入れた。ところがここで、“強度があるフジツボ形”にせよというチャチャが入って描き直し。原理、根拠が理解不能。仕方がないから、4.5mm厚をプレスする図面を仕上げたけれど、どうやって作ったのか、値段が幾らになったのか、もう目を瞑った。トウヘンボクには、ほとほと困る。
 この辺りは、外観では全く分からない。

 さて通風の改善は、それまでにも既存車で種々の試みがなされていた。
 当方の考案は、連結器のちょいと上に通風口を設けて、風洞で運転士の右手のところ、すなわちブレーキ弁ハンドルのところへ導くもの。バネでパカッと開くフタを付けた。風洞が縦に長いのは、雨天での水切り。トタン板をハンダで組み上げる図面を描いて外注した。寸法が出ていなくて車体への取付には苦労したと聞いた。
 効果には自信が無かったけれど、2年後の第3編成でも同じ構造としてくれと言ってきた。冬はフタがネジ止めされていたから、通風はソコソコあったのだろう。
 現場での通称は「伝声管」。併用軌道で、「そこの車、どきなさい」というふうに使ったのかも。

 車掌台の手ブレーキ・ハンドルは、本当は不要。でも、設けることになった。
 新車の場合は車体メーカーが手配するとのことで、どこかで作ってくれないかと問い合わせたけれど、無理。万策尽きて、タネ車の旧式で大きなものを流用することとした。ただし、背丈を僅かに低くする必要があって、縦軸を短く切り詰めた。回転軸だけに精度を心配したけれど、現場があっさりとやってくれた。この黄銅のハンドルだけが明治時代からの引き継ぎで貴重だったのだけれど……。

 ブレーキ弁と手ブレーキハンドルの間は機器ロッカーとして、その上面に、ステンレス浴槽を小さくしたみたいなものを付けた。これ、非常鞄を沈めて置く場所で、窮余の策。現場では“流し台”と呼んでいたらしい。
 小さな子どもにもカブリツキ展望を楽しんでもらおうという画策は、このときから8000系まで綿々と続いたわけ。

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西大津バイパスによる移設前の追分駅

 妻車番については、前例踏襲主義というか、適当に並べた。完成後、大津運輸部から側面用の大きなものに取り替えて、位置も真ん中に変更したいと言ってきた。まあ、当方に拘りは無かった。
 なお、外部塗色を通勤車色としたのも大津運輸部の要求。早朝の浜大津・三条間準急に80型を使っているのだが、自動車運転者が、それが併用軌道の停留所で停まるものと思い込んで、直前を横切ることがあって危ない。だから京津線は皆、緑系としたいという理由。まあ、新鮮味を出したかったというあたりが本音だったようだ。

 車内の改造で感心したのは、客室座席の座面を嵩上げしたこと。25mmほどだったか。従前は、確かに座り心地が悪かった。これ、京阪線の2000系1次車も同じだったけれど、弄ろうという話は無かった。問題意識が欠如していたということ。

 Mc1車のパンタグラフ移設は、接近パンタを解消する目的。EH10の試作車から量産車への変更と一緒。押上力が集中して、架線側に悪影響を与えることがあったから。
 これが、タネ車として280番代が選ばれた一番の理由。それが無ければ、350型の両引戸片運車とするのが、運用互換性の面から正解。石山坂本線限定運用車を減らすということ。
 パンタグラフの下降時は、空気シリンダーで枠をグイっと押すので、納まる時にはドスンという大きな衝撃がある。だから、屋根裏には十分な補強が必要で、簡単な工事ではない。

制御装置のこと

 当方は、自分のことで精いっぱいで、電気機器のことはあまり知らない。500型を発電ブレーキとすることは、早い時期に決まっていて、回生は考慮の外だった。
 ただ、それを電空連動とするか否かを確定すべく、80型に機器を仮設して大津線全線で試運転を行った。その結果、併用軌道で使い慣れていた、マスコン一本で力行とブレーキを操る方式となった。

 微かな記憶をたどると、雲の上よりの御沙汰の中に「2000系を改造して使え」というのがあった。結果がどうなったかはわからない。次の画の上段が2000系で、下段が500型。遮断器はよく似ている。前述の「京阪電車・車両70年」より引用。「(制御装置は)旧2000系の部品を一部活用して組み立てられた」と、鉄道ピクトリアル誌1991年12月臨時増刊号No.553のp227にある。執筆者は、電気機器担当者の横で仕事をしていた澤村達也氏。

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 ところでこの電車は、主抵抗器の熱風が語り草。原因は、新採用された抵抗体の放熱特性が優れていたということ。京阪線の1000系で懲りたはずが、繰り返してしまったお粗末。屋根上とする等、方法はいくらでもあったのに……。
 制御装置の要目で注目しなければいけないところは、「直並列制御」の文言が無いこと。すなわち、力行でも大量に熱を発生させていた。

 第3編成では中間連結器の下にも抵抗器を吊ったと聞いた。それが記事p20右上の写真。真横から眺めたら、どんな大きさなんだろう。残念ながら、レイルロード1994年刊「サイド・ビュー京阪2」に、第3編成の姿は無い。

台車のこと

 電気品のスペックが決まって、次は台車。これも雲上人より「(当時廃線となった)京都市電の台車を貰え」と言ってきたけれど、そりゃあ根本的に無理。
 全くの新設計だから3社競争見積もり。いずれの提案も、ペデスタル式の軸箱支持だった。線形と最高速度を考慮すれば当然の帰結。当時の国鉄と西武は言うに及ばず、地方私鉄は軒並み。性能的に十分な上に、安くて分解組立も容易。
 FSに決定後、“車両の神様”と呼ばれていた役員に管理職が報告したら、「この時代に、そりゃあ無い」との仰せ。Sミンデンというわけにもいかず、京阪線で使っている側梁緩衝ゴム式となった。値段がアップして、検修工場での手数は増え、致命的な欠陥も抱える結果となった。メンテナンスフリーなんて大ウソ。(ここでナゾナゾ。この軸箱支持の分解組立方法は?)
 なお、軸箱に空気孔を開けざるをえなくなって(記事P17C3L10、80型KD204も一緒か?)、この鉄道が要求した仕様が常識外れであることを知った。そして、そんなことはメーカーが決して教えてくれないということも骨身に染みた。

 駆動装置のTD継手は、全国的に見てもごく初期で、TDKの提案にはビックリした。それまでの中空軸式は軸バネの高さ調整が面倒だったから、謳い文句には喜んだ。最初に採用したのは確か京王6000。500型は負荷も小さく、メーカーは格好の実績づくりと踏んだのだろう。日本の誇れる画期的な技術だと確信したけれど、もちろん初期にはトラブルもあった。ちなみに後年、このTD継手を京阪線のVVVF試験車で採用したとき、実績の中に大津線が含まれていた。これをみた“車両の神様”は、「そんなのは聞いていない」とノタマったそうな。
 66:11という割り切れる歯車比は、機械屋の常識からは異様だけれど、歯面研磨精度が高いので無問題とのことで、その通りだった。

 500が、大津線の初モノ尽くしだった中で、一番の心配は一体圧延車輪。京阪線ではキシリ音で悩んでいたから、760㎜径の車輪にはオッカナビックリ。3倍の値段という防音車輪を第1編成に取り付けた。
 ただ、効果の程はよく覚えていない。深夜に騒音測定をしたけれど、タイヤが厚い内は差が出なかったのかもしれない。2年遅れで登場した第3編成を防音車輪としたのは、念のためということだったか。
 なお、この後で大津線の既存車は焼嵌め車輪から一体車輪への変更が始まった。切っ掛けは、寝屋川工場が保有していた機械を廃棄したいと言い出したこと。もちろん大義名分は保安度向上。

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四宮車庫にて 1983-10-14

 この正面を見ていて思い出した。
 行先表示器窓の取付面はR8000だけれど、ガラス自体は平面。Hゴムは、t5用で幅30mmと、京阪線のt3用25mmよりも太い。錦織工場でのHゴムの手持ちの種類を増やしたくなかったから。ただ、組み付け作業は難しかったと思う。
 ワイパーの動力は空圧式。この取付が正面窓の寸法決定のキーポイント。電動モーター式は未だ一般的ではなかった。ただし、ブレードはトヨタ・クラウン用。大津運輸部の考案で、アームを上手く改造していた。これを寝屋川工場の連中に教えたら、早速取り入れられた。ちなみに、当時の寝屋川の担当区分は、空圧式がブレーキ屋、電動式がモーター屋で、アームとブレードは全て車体屋と、面倒臭かった。

 前照灯で不思議だったのは、その灯具。2200、2600で採用した“目玉焼き”改造ではなくて、2400、3000、5000と同じとしたのに、上司の誰からも異論が出なかったこと。失敗作だってわかっていたのかも。

 正面窓ガラスの取付方法は、国鉄103系のそれを参考にしようと、車体メーカーに図面を貰った。周りは単なるHゴムだったけれど、ガラスの2本の継ぎ目には専用設計の型ゴムが使われていて唖然。500とはガラスの厚さが異なるし、必要量はホンの僅かなので、同じ手法は使えない。
 だから、中央の桟は当方のオリジナル。ガラスの縁を「コ」の字型の型ゴムで保護して、表裏を2本の鋼材で挟む構造。車外側が三角断面で、室内側が平帯。ステンレスの磨き出しとした理由は、存在感を消すため。ビスで締めて相応の強度を負わせている。両端をHゴム断面に合わせて削るように指示しておいたら、ステンレスが硬過ぎて、また直ぐに焼きが入ってしまい大変だったとのこと。そして、ホースで水を掛けたら浸水したので、合わせの中にシール材を詰めたなどと、現場には助けてもらった。
 そういえば、溶接工の中に、メーカーで103系の製造に関わったという方がおられた。ガラスの上部に空気取入口を作ったらどうか、などと言ってきたのには、まあ閉口。前述の“フジツボ”の件もこの御仁の差し金らしかった。103の腰部は、まさか……。

 自動連結器のナックル改造の話は、7年前、図面については2年前の記事をそれぞれご覧ください。

【追記1】この前面鋼体は単純な形なのだけれど、唯一難しいのが、窓下の斜めの細長い面。よく考えていただくと判るが、幾何学的にいって単なる平面ではない。作業者からはこの角度に曲げた板を供給してくれといわれて、単にベンダーで曲げたものを手配した。電話を待っていたけれど何も無くて、そのうち完成してしまった。雑誌のアップ写真をシゲシゲと眺めても破たん無く仕上がっている。これが今もって不思議。
 Mc1とMc2とでは施工会社が異なるから、両者では差があるかもしれない。

 記事のp20、505号車のM台側開き戸が開いて、傾いたブレーキ弁が見えている。これ、ブレーキ屋にとっては非常識。回弁は平面の摺り合わせで空気通路を切り換える。すなわち、摺り合わせ面に潤滑油が絶妙な粘度で満たされている。この面が傾くと、潤滑油の溜まり具合が変化するはずで、不具合が危惧される。
 HRDの電気接点オンリーなら心配ないので、その頃に操作性の向上を狙って傾け出していた。それを真似た。トラブルを聞いたことが無かったから、常識破りの成功例といえる。

 主抵抗器の前面に設置された防熱版は複雑な構造をしていて、作用が想像しにくい。たぶん、停車時には熱い空気をこの中に蓄えて、走行し出したら排出するということを狙っている。でも、可動部分が無くて、そんなに都合の良いものができるはずは無い。この後にも種々工夫が続いた。

 この床下機器のうち、番号18と29が重なっているところに注目。前者がコンプレッサー接触器(リレー)で、後者が同調圧器(圧力センサー)。これを2段に積んだ工夫は、凄いと思った。しかも接触器は、普通とは90度捻っている。すなわち、車両図面とは変わっていて、第1、2編成も変更されたようだ。狭い床下に如何に詰め込むか、必要は確かに発明の母。

 連結側の棒状連結器は、台枠取付部が単純で心配した。非常時でも4連以上は連結しないので、こんなもの。
 失敗したのは安全吊。連結器が破損したときのバックアップだという思いから、その寸法と強度だけを考慮した。
 ところが、工場の出入場時に、連結器胴と安全吊の間に木材ブロックを挟んで、連結解放作業に使うという。そこでは左右方向に剛性が必要というわけで、記事p13連結妻図面で分かる通り、四隅に三角の補強が追加された。ガチガチより、僅かには動く方が孔合わせに都合がいいとのこと。2014-06-24

【追記2】第3編成の写真を、ヤマさん(ブログ「高急モデルノート2」)に送っていただいた。空気側の床下機器がハッキリと判り、棒状連結器下に吊った抵抗器も大きさの見当が付く。撮影は1988年5月31日浜大津。2014-06-28

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【追記3】なんと、最初に描いた構想図が出てきた。タネ車の写真を大きく引き伸ばしたその上から半透明紙にトレースし、正面だけ変えて色鉛筆で彩色したもの。行先表示器が無いなど、実現した姿とは各部が異なる。カラーも従前のまま。

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 完成間際に広報部門から予想図を求めてきて、これを渡した。「暮らしの中の京阪」というリーフレットだったか、掲載されたものは何故か左右反転されていて、もちろんモノクロ。足の無いユーレイみたい、と担当者に言われてしまった。2014-08-12

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