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2018/06/15

PFM社ドン・ドリュー回顧録を読んで(3)

I tried to visualize the rise and fall of U.S. importers and Japanese & Korean manufacturers in brass model business. And look back on the historical flow of the second-hand market from the 1970's to the 2000's

 PFMをはじめとするブラス・ビジネスのことをずっと考えている。日韓米の盛衰を数字で表せないかと思い立って、グラフを作ってみた。【画像はクリックで拡大】

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 元ネタはUncle Dave模型店が掲出するブランド毎の存続年で、そこから各年に存在したブランド数を割り出した(同店サイト)。米加の輸入業者と、日韓中の製造業者である。中国はデータが少なくハッキリしない。もちろんブランド間の差が大きく同列には扱えない。また、元データは曖昧で、異論も多い。さらに集計する人間がいい加減ときているから、出た結果の信憑性は無きに等しい。経済的出来事にも疎く、単に見知ったものを描き込んでいるにすぎない。

 それでも何とか、おおよその傾向が表わされているのではないかと、無手勝流に解釈を試みる。
 1940年代後半にブラスモデルが出現し、1950年代中頃に急激な発展をみて、1960年代に絶頂期を迎える。製造拠点の日本から韓国への移動は1970年代から1980年代まで、ほぼ20年かかった。特に1980年代には韓国製が定着した。その結果、1980年代後半に米国輸入業者の大整理が起こった。韓国製造の転機は1990年代末。この時に中国化の動きが出たのだけれど、実態はまだ明らかになっていない。2000年代中頃にブラス市場は急激に衰退し、韓国製造の分化が進んでいる……。

 正確を期すなら、ブラスガイド等に掲載されたロット毎の製造数と小売価格を使って金額ベースで算出する手法が考えられる。データをデジタルで入手できれば容易である。

そう、韓国化で成功したインポーターは多くはない。PFMはいち早く取り組んだにもかかわらず、上手くいかなかった。なぜなのか。

 最初の妄想は、中古ブラスの流通が新品の売れ行きを阻害したという仮説。特に定評のあった同社製品が第2次流通市場に出回るのは当然で、類似の製品は捌き難くなった……というあたり。

 その中古品に関心が向き始めたのはいつのことだろうか。
 過去のブラス製品を網羅的に紹介したラッド・チェックリストの発行が1969-1977年。
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 購入のための指南書を目指したブラウン・ブックは1980-1994年。

 文字通りコレクター向け雑誌のBrass Modeler & Collectorは1991-1992年

 日本製ブラスモデルの集大成を謳うアート・オブ・ブラスは1982-1986年。

 中古ブラスで名が知られた店がMR誌に最初に中古リストを掲載した号を探すと、まずデラウエア州のミッシェルズMitchell's Family Storeが1973年12月号である。
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 これが2004年5月号まで続き、巻末店舗リスト掲出の最終が2007年11月号。広告中の赤いラインは、雑誌の最初の持ち主(尼崎市在住)による。(店の詳細はCascade Green Forever!を参照)

 フロリダ州のオレンジブロッサム・ホビーズは1975年12月号で、2001年閉店(ファンタジーボックスを参照)。

 コネチカット州のザ・カブースThe Caboose, LLCは1983年3月号から。現在でもホームページを維持している。
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 デンバーのカブース・ホビーズCaboose Hobbiesは1977年7月号から。表中のアスタリスク・マークが中古の由。 閉店は2016年(掲示板を参照)。
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 最初の頃の商売は、まず雑誌に広告を出して、客にSSAE=返信用切手貼付の封筒を送らせる。それでリストを送付して注文させる、という今から思えばマドロッコしい方法だった。
 そこでカブース・ホビーズが定期的に無料で"Brass Caboose"という冊子を配布するようになると、全米のブラスがここに集中し出す。ある業者はリストをファクスで送ってきて、注文もファクスという凄まじさだった。
 1990年代半ば過ぎにはHPにリストを掲載して、メールで申し込む店が出始め、直ぐにカブースホビーズなどがクリックで注文というシステムを採用した。

 次の新しい変化はネット・オークションだった。
 eBayが1995年に設立され、1998年頃には大きく成長、我が国でも2000年にオープンした。これであっという間に店舗扱いが終焉する。日本撤退の2002年までのわずかな間にeBayへ加入して現在まで続いている御同輩は多いことだろう。
 そして2007年に購入を代行するSekaimonがサービスを開始して、米国内しか発送しない出品者からも購入が可能となった。

 ちなみに我が国の状況はといえば、天賞堂エバー・グリーンの開店が1995年。
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とれいん誌1995年4月号裏表紙

 それまでにも中古専門店があったような気がするが、雑誌に広告を見つけられない。1970年代初めのTMS誌上で山崎喜陽氏が「イギリスには中古品だけの模型店がある」と書かれたときに、日本には品物がそれほど存在しないと思った記憶がある。さてどの号だったか。我が国のとれいん誌が盛んに米国型ブラスを取り上げたのは1997年頃まで。

 2001年に開催されたJAM第2回で、モデル・ビジネスをテーマとしたクリニックがあった。連れだって参加した友人が、「中古品が流通し始めている。新品が売れなくなるのでは」と発言したら、コーディネーターを務めていた水野良太郎氏が「他人が触れていない品を欲しがる人間は無くならない」と応えておしまいだった。
 この頃の我が国では市場を形成するほどの勢いにはなっていなかったのかもしれない。こちらとしては同じく壇上におられたメディカルアート店主に実感をお聞きしたいところだった。

 以上のことから、アメリカでの中古市場は1970年代を通して一般的となり、1990年代に最高潮に達したと考えられるだろう。その興隆過程がPFMの凋落時期と重なっている……という見立てである。もちろん彼の地では戦前のライオネル製品などをやり取りする下地があったことも見逃せない。
 その頃に手に入れたモデルがセコハン=2nd hand、2次流通とすれば、現在出て来るものは3次流通以降になるのだろう。退色や破損が進み、元箱が失われていくのは仕方がないことといえる。

【追記】中古品を前面に謳った模型店「ダビンチ」の広告を"とれいん"誌に追ってみたら、1978年12月号p79が最初だった。引き続きTMS誌を探す予定。2018-07-18

Train197812p79a

(1)PFMと日韓メーカーの事業基盤の差

(2)ブラスの材料としての表現力の限界

(3)ブランドの消長と中古マーケット

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コメント

ビジネスと云う観点から見たら、やはり価格がカギなのでは。$=¥360時代ですら、ブラスモデルは、米国では一部の模型人のものだったと思います。ワークスKさんも、グラフ上で、チャンとニクソン・ショックとプラザ合意の時期を明示しているじゃありませんか?韓国メーカーの勃興と、日本に取って代わった時期が、見事に通貨事情とシンクロしているのでは?模型は嗜好品だから、高くても買う人は勿論居るが、庶民の米国模型人は、そうはいかなかった。代わって恩恵を受けたのが我々。日本で、米国型ブラスコレクターが増えた一番の理由は、為替でしょう。

>>仰るとおりで、PFMも韓国に進出してソコソコ作っています。Samhongsaをはじめ、SKIやRok Amですね。ところがどうもよろしくない。ドン・ドリューがTenshodoやUnitedほどに使いきれなかったのは何故か、という疑問なんです【ワークスK】

投稿: 宮崎 繁幹 | 2018/06/15 21:05

ワークスKさん、すごい資料を纏められましたですね!一目で日本と韓国のビルダーの盛衰と円高がリンクしているのがわかりました。
PFMが韓国ビルダーへの乗り換えに手間取った理由は、Don Drew氏の生真面目さと温厚さ律儀さにあったように思います。
同氏は、韓国製にも当時の日本製と同じレベルを求めた所につまずき原因があったように思います.
それと韓国ビルダーの対応も彼の期待に応えるものではなかった、日本ビルダーと同様の対応を期待していたのでしょう
同氏の回顧録にその当りの状況が読み取れます。

>>御拝読有難うございます。もう少し考えてみたいと思っています【ワークスK】

投稿: webeloskrvin | 2018/06/20 19:30

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