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2019/09/16

アイデアを募集することの危うさ

7月18日に発生した京都アニメーション事件は、現場となった六地蔵駅付近に馴染みもあってショックを受けた。そして、容疑者が「パクリやがって」と叫んだという一事にも驚かされた。これに関連して、国鉄の専務車掌として有名な坂本衛さんが「アイデアをパクラれた」というエピソードを某所に書かれた(掲示板)。そして30年ほど前、勤務していた会社がその将来についての論文を募集したことを思い出した。そんな行事は百害あって一利なしと憤ったけれど、中止させる術は無し。そこで、その頃に実施されていた改善提案制度を改めようという提案を文章にして提出した。もちろん、選考には全く引っかからなかった。その駄文を不憫に思い、ここに掲載する。単なる個人的な記録である。乞う御容赦。


改善提案制度の改善を提案する

要旨 現代のハイテク機器は目を見張るほどに高度となっている。21世紀には更に変革を遂げることは想像に難くない。そしてそれは我々人間の仕事を奪ってしまうという恐怖心を抱かせる。しかし、よくよく考えればそれは杞憂である。機械の導入から運用、そして廃棄への道程は全て人間の手が握っているわけで、漫画のアトムのように機械自身が考え、自己進化、自己増殖さえもするようなことにはなるはずがない。
 そんな中で我々に求められる責務は、より仕事本来の目的に沿った部分をこなしていくことである。すなわち業務の改善である。電車の保守作業を例にとれば、担当する機器の信頼度はますます高いことが要求され、また直接の作業者が改善の実施者たることを望まれるようになって来ている。それを促進するシステムに従来「改善提案制度」が存在するが、昭和29年の制定以来まったく手を加えられていないので、ここに改正を提案する。
 まず、制度の問題点の一つが提出の少なさで、その原因が表彰対象の不明瞭さにあること。解決策として、提出すべきがアイデアではなく、実際に業務を改善した顛末説明に限定することが効果的であると指摘する。
 次に当事者の意欲を掻き立てるために評価までのスピードアップを図ること。評価と表彰の実行者を組織の下位のランクまで引き下げること。これは同時に改善件数の大幅な増加と適切な評価も期待できること。質を向上させるために、相互啓発が図れる発表会を開催すること。事務部門の促進のため、手作りの道具としてパソコンを導入すること。さらに、これらの運営当事者である第一線の管理者を充分に教育することなどを指摘する。

一、はじめに

21世紀の当社はどうなっているのか。鉄道路線は、沿線開発は、はたまた流通部門はどのように発展しているのだろうか。そのとき、我がグループの勢力圏は、今までの沿線中心から日本全国へ、いや全世界へ拡大しているのだろうか。会社の事業の成り行きに思いを馳せると、どこまでも夢が広がっていき限りがなく楽しい。
 しかし会社の未来に対して、我々が本当に関心があるのは、事業の発展ではない。ありていに言えば、自分がどうなっているか、給料を別にして、真の意味でのその言葉の内容を吟味すれば、そのとき働いている職場で、自分の能力を十二分に発揮できているのだろうか。忙しいながらも充実して仕事をこなしていられるだろうか、ということに他ならない。
 機械に仕事を奪われていないかという心配。今でも工場や現場には最新鋭の機械が続々と入り、事務所にはコンピュータが至るところに導入されつつあるが、これ以上に多くなったら我々人間のやれる仕事が無くなってしまうのではないか。また、現在の状態が不満だらけというわけではないものの、将来は今よりもっと意欲と生きがいを持って働いていたいという欲求である。確かに会社が人生の全てではないにしろ重要な部分を占めているのだから、職場における時間が充実しているか否かについて関心のなかろうはずがない。
 私はここで、会社の発展と我々社員の生きがいとの接点の一つが自らの業務の内容を改善していくことだという認識の下に、事務部門を含めた機械化が決して人間性喪失を招かず、文字どおり「機械的な仕事」から我々を解放していくものであることを述べ、つづいて具体的に現在の改善提案制度とその運用されている環境について、一人一人の仕事における能力を更に引き出し充実感を持って過ごせる職場を創るために幾ばくかの提案を行いたい。改善提案制度の健全な運営が、社員の経験、知識および創意工夫に基づく英知を活用して、個人の充実感と会社の発展を共に得るための方策としてたいへん有効なことは、万人に異論のないところであろう。

二、鉄腕アトムは現れるか?

世はまさにハイテク時代と喧伝されている。私の勤務する工場もその時代の波に洗われ、人手に頼っていた仕事が機械に、また古い機械はより高性能なものへと続々と変わりつつある。たとえば、電車の新自動塗装機は、スイッチを押せば機械が人間の手のように不必要な部分を避けてムラなく美しく塗ってしまう。また、車輪をきれいに削り直す新しい旋盤は、機械が自動的に車輪をセットし、直径を測り、あっという間に削り、そして送り出すまでの仕事をしてしまう、という具合である。
 腕力を必要としたり危険や汚れの伴う作業は機械が担い、機械そのものもパワーとか精度とかを備えて、故障なんかは滅多に無くて手入れもほとんど要らないとか、また操作性などが向上進歩して作業をする者の負担がますます減少していく傾向となっている。さらに目を見張るのは、今までは『さじ加減』とか『ノウハウ』として成し遂げられていた微妙な部分にまで機械が踏み込んできたことである。初心者には皆目見当もつかない車軸の超音波探傷のオシログラフ波形パターン解析とか、ベアリングの履歴を加味した振動による寿命判定器などが、ぼつぼつではあるが出現している。人間の五感に相当するセンサーの開発や、その情報を有効に生かして頭脳の代わりをする装置の進歩によるところである。
 工場や現場作業の機械化に対し、事務部門の勤怠管理や故障などのデータ処理、それに設計作業の機械化、すなわちコンピュータ化も進んでいる。塗装機や旋盤と同じように、より早く、より高度に業務をこなし、一度使って味をしめたら以後、それ無しでは考えられないほどになっている。算盤と計算尺は無用の長物である。
 確実にこれら新しい機械の導入は我々の仕事の改善に大きな力となり、時代の流れである。その導入の時期を逸することは、担当者の職務怠慢であり、かつ会社に損害を与えるに等しいと断言しても過言ではない。
 ここで湧いてくる疑問は、このまま機械が進歩すれば人間は単なる機械の番人になってしまい、究極には『不要』な存在になってしまうのではないかということである。また、チャップリンのモダンタイムスではないが人間が機械に使われ、また無人で全てのことが出来たり、果てはロボットが進歩し人間以上の鉄腕アトムが現れて自己増殖、自己進化をするまでになるのではないかということである。

三、人間にしかできないこと

もちろん誰の目にも明らかなように、その答は「否」である。近い将来と言わず、SF小説の舞台の時代までも「NO」と言い切れる。たとえば、その機械自体を必要だと判断すること、どのような機能を持たせるのかとか、構造を設計すること、トラブルが起きたときの解決等々、どれもこれも人間でなければ出来ない事柄ばかりである。
 自動塗装機について言えば、導入時において、どんな機械をどのように配置するか、運用にあたっては工場の全体の流れの中で塗装工程をどこにおくのか、塗料の材質は今のままでよいのか、またはもっと経済的で早く出来る機械のコントロール方法はないのか。車輪旋盤については更に、適切な削る周期はどれ位なのか、走行性能の上でも削正効率の上でも一番いい車輪の形はどんなものなのか‥‥など、人間のやることは山ほどある。そして、ここで注目してほしいのは、これらの人間のやることが昔に比べて機械を導入した目的を達成する手段にだいぶ接近していることである。昔だったらマネジメントを担当する人間のしていたことが作業をする人間に任されはじめたということだ。
 つまるところ、ちょっと議論を飛躍させてもらうと、チャップリンは実は機械の後ろにいる「人間」に間接的に使われているのであり、アトムは「人間」自体が驚異的な十万馬力のパワーを身につけたらどうなるかという空想物語である、と言えそうだ。
 さて、では「進歩した機械が我々に何をもたらすのか」という古典的な質問に何と答えたらいいのだろうか。私は「人間性が回復され、真に人間でしか出来ないことを要求される時代をもらたす」と答えたい。同じことの繰り返しであったり、起きてくる現象に対して対応が一義的に決まっているような仕事は機械に任せればいい。前述のように人間は、何を機械に任せるかを決断し、どんな構造を採用してどんな機能を持たせるのかを決定し、導入し、改良し、そして運用し、最後には旧式になったと判断して棄てる‥‥という仕事をするわけである。

四、改善提案制度の根本的問題

電車のパンタグラフの点検と修理を行う6人編成の職場がある。電車の走っている最中にこのパンタグラフが故障すると、電車が走れなくなる上に架線が切れたりして、何時間にも渡ってダイヤは乱れ何十万人の足を止めてしまう。列車密度はますます高く、電車も高性能化されていくのだから、パンタグラフにはより高度な信頼性が要求されることは目に見えている。
 さて、パンタグラフは数百の部品で構成されている。全体の信頼性を上げるためには、この個々の部品について確実で高度な保守作業を一つ一つ積み上げる必要がある。たとえばベアリングを軸にはめ込むこと、フレームを組み上げるボルトを締めること等である。ところでこれらのやり方を決めたり、いったん決めた方法を改善したりすることは誰がやるのだろうか。課長だろうか。とんでもない、そんな作業があることさえ知らない。では係長だろうか。作業のあることは知ってはいるが、実際にやったことはない。ということは当然、この職場の6人で作業方法の妥当性を検証し、信頼度向上のための改善をやらなければならないということになる。このように改善は現場の一人一人に委ねられていて、それが企業の死命を制するほどに重要な存在なのである。厳しい時代の先端をゆく自動車や家電業界などでは、この個人の能力をフルに引き出す業務改善運動に組織を上げて取り組んでいる。
 ところで、電車は担当線区だけで600両を数え、人間は300人以上がその保守に携わっている。この中から「改善」として提案される件数は、年間20件から30件である。そしてこの数字が我が社全体の約半数を占める。ところが、ある知人は先端企業ではない中位の機械製造会社に勤めていて、改善の件数は全社で年間一人あたり1、2件。目標を5件においているという。
 明らかに当社は少ない。絶対的にも、また相対的な指標の上でも少な過ぎる。しかし、実際には隠れて改善が行われているにもかかわらず、提案の手続きが面倒だし、表彰を受けるのも面映ゆいので表に出てこないのかもしれない。または制度自体に欠陥があり、改善を奨励する役目になっておらず、改善自体が少ないのだろうか。
 制度の取り扱いを担当しはじめた立場の私の経験からみるとどちらもある。どちらかというと改善行為自体が少ない。それは皮肉にも改善提案制度が昭和29年に出来てから一度も改善されていないことでも判る。
 まずこの制度に矛盾や不明確な部分を感じるのは、評価の対象が提案のアイデアだけなのか、それともそれを実施した結果なのかということである。現実には、職場から上がってくる提案は、既に実施に移されて良好に運用されているものがほとんどである。私はこれで良いと考える。部長や課長が実際問題として、パンタグラフのベアリングの組立やボルトの締結方法のアイデアの可否を判断できるはずはない。実施の判定は実務に近い係長なりに任せて、改善提案の制度としては実施された結果の優劣を判定するだけでよいのではないだろうか。
 「アイデア」は、それ自体を思い付くという行為よりも、それが妥当で実現可能であると判断したり、プロジェクトとして具体化していく方がはるかに創造力やエネルギーを要する。日本においては、このアイデアが正当に評価されないと嘆く向きもあるが、かえってそれこそが日本のバイタリティの源ではないかと考える。
 今度の懸賞論文の応募でも、レール式リニヤモーターカーの採用とか、某支線の某市までの延伸、または線路で囲まれた三角地帯の活用の類のアイデアも出てこようが、冷静に考えた場合にそれをどう進展させるのだろうか。確かに、信号の技術を担当する社員が宅地開発のことを提案して、その門外漢の着想が画期的で素晴らしいアイデアであるようなことはストーリー的には劇的で面白そうである。しかし現実には専門の情報や手段は担当者が一番良く知っているのであって、部外者の思い付きは実際の需要と採算や法律上の考慮、または物理的実現性についての検討の欠けていることの方が遥かに多い。
 担当しない人間からアイデアが出たとして、現実に携わる者は実状を知る実務者であるから独自の意見を持っていようし、お仕着せでは困難な仕事への力の入り方も違うというものだ。また、出したのが当事者であったとしても、実現するには他の部門の協力を必要とする場合も同様である。アイデアの段階でこの制度のテーブルにのるとトラブルが起こり易いのは、ここに起因している。特に完全な部外者の思い付きとかアイデアを判定するのはこの制度になじまない。改善提案は実行に移された段階で、アイデア、実施の判断、そして実現した人間をそれぞれ評価するのがよいと考える。個人個人が自分の担当している仕事の業務改善に最善を尽くし、制度はその環境を整えていくという姿である。いっそのこと「改善提案制度」という名前も、「業務改善表彰制度」と変更したらと思う。ただし、中にはアイデアの段階で表彰してもよいものもあるだろう。その場合には、制度に載る前に関係各部門と充分協議することが実現の成功を期する上で是非とも必要なことである。今の制度ではテーブルに載せてから協議するスタイルであるが、これで関係各部門が不満なく協力できる術を私は考えつかないし、過去にうまくいった実例を知らない。
 事務処理に関する改善提案がほとんど出ないのは、一にここにあると言えるのではないだろうか。事務部門というのは、提案に値するアイデアを思い付いたとしても、ほとんどは自分の部署だけで決定し実行するという訳にはいかないし、些細な改善のアイデアでも必ずいくつもの部署に関係し、それらとの複数の協議を経るうちに洗練され、アイデアとしての比重が自ずと低下して、提案制度に乗り難くなるのである。これからはこれらの業務改善の成果も正当に評価していく必要性がある。

五、評価のスピードアップ

次に制度の問題点として、評価のスピードの遅さが上げられる。実施後3カ月以上後を画一的に表彰査定の時期とするのは今の時代になじまない。
 また、前述のように、改善がまったく普通の日常的な行為であるならば、その内容は微に入り細に渡り、かつ尋常であるならば雨後の竹の子のように提出されるであろう。それにもかかわらず、中には画期的なものも含まれているとしても、全てが全社的なレベルで評価され、褒賞にあずかり社員必携に記録されるのは、どうにも大げさ過ぎる。
 その内容に自ずと軽重があるのは当たり前として、係、課または部などの単位でその実施の評価をしてしまうという方が実状にあっているし、事務処理のスピードも早くなる。全社的には事後にその結果だけをまとめるだけでよい。良い改善なら一日も早く業務に組み入れるのが仕事のためであるし、早く評定が下される方が本人にとっても張り合いである。自分の業務改善が認められるなら、社員必携に記入されて表彰金なんていらない。人間においては金銭的な物欲よりも、正しく評価されたり充実して仕事が出来るという社会的欲求の方が強いことは先の社員研修で教わったことだ。
 また現在、改善提案書の提出の直後に努力賞なるものが授けられることになっているが、余りに機械的で、単に事務局がリアクションをちゃんとしているという意思表示でしかないように感じる。それは正当な評価にはほど遠いので、提案者の意欲の向上に寄与していない。

六、業務改善の発表会

 私は高校の頃、書道をちょっとかじっていた。あるとき正義感の発露からだと思うが、師事していた先生に「なぜ展覧会とかコンクールとかに出品して功名をほしがるのか。書くことは己れためなのに」と聞いたことがある。その答は確か「他人の作品を見、また他人の眼にさらすことは自己発見の一つの方法だ」であったように記憶している。その言葉で目から鱗の取れる思いがした。
 ところで業務改善の内容は、表題のみが実施通知として掲示されるだけで、一般には詳しい内容が紹介される機会がない。知っているのは上司と判定を行った担当者だけである。これを書道における発表会のように皆に知らせたらどうだろう。直接関与しない分野でも、考え方やその部門を理解する上での参考になるだろう。また発表する側も自己の行為の検証にもなるし、表現方法の研鑽にもなる。
 方法としては発表会のように、一同に会して行うのが一番良いと考える。日本のトップ企業で盛んなQC(品質管理)サークル活動の目玉の一つがこれだという。当社では体制が整わないので小集団を中心とする運動までは時期尚早かもしれないが、業務を改善するという目的は一緒で、意欲を鼓舞し相乗効果を生み出す結果は同じはずだ。最初は課、次に部、最終的には全社規模でというふうに選抜スタイルでやれば、全社員の注目を集め関心を高めることが出来るだろう。
 発表会までが不可能であるなら、内容を論文集とか技報としてまとめたらどうだろうか。いずれにしろ、業務改善は単に行えば良いというものではなく、結局その内容、レベルが高くなければその意味を失う。それを避けるためには相互啓発を促す方策を是非とも採用する必要があると考える。

七、道具としてのパソコン

事務部門からの提出が少ないことは前述したが、特に組織が大きい場合には、この分野の能率を向上させることは至上命題のはずである。当社においても同様で、この部門で業務改善が行われ易い環境を整える必要性は大きい。
 さて、工場や現場では道具を手作りしている。有り合わせの材料を用いた簡単なものだ。ベアリングを軸に組み込むのに便利な治具とか、歯車を洗浄するための台とかはみな手作りである。まあ全部がとは言わないが、これらが改善のネタとなるのである。
 事務処理の場合でもこんな道具があったら便利である。何度も同じ手順で計算を行ったり、大きな表の縦横合計を取る作業とか、同じような内容で一部だけ直せば他に流用できる伝票とか書類とか。
 こんな場合、工場と同じように仕事を処理する上での便利な道具を自製できないだろうか。実はこれを可能とするのがパソコンである。従来コンピュータは専門家が充分な計画の下で動かすものという認識が一般的であった。しかし今日では、こういうものは工場での大きな機械と同じだと考えて、簡単な道具として素人でもいじれるパソコンが認められてもいい時代になった。低価格で持ち運びの出来るパソコンが数年前から「電卓」の雰囲気で既に普及段階にある。それを動かす知識もひと昔前のように専門的なものはいらない。現場の連中でも出来合いのパッケージソフトを駆使したり、また簡単なプログラミング言語を使ってデータを縦横無尽に利用している。
 統一的な情報管理を行わずに、場当たり的に事務処理を機械化することは危険であるという意見もある。パソコンをそのような大それた機械とは考えないで、その場その場で便利に使う使い捨てに近い道具だと思っていただきたい。もちろん工夫すれば大型の機械とデータを共有させることも充分可能である。

八、担い手たる幹部の教育

私は入社以来4度の社内研修を受けた。その内容はつまるところ、人間の社会的性質を知ることである。そして根が単純なためか、いつも感動して職場へ帰ってくる。ところが職場は講習で教わったところの原始的な状態のままで、下っ端のぶんざいでは研修の成果を活用できる隙間さえ見つからず、結局自分自身も元の状態に戻ってしまう。これをその道の専門家に聞くと「カプセル効果」と呼ぶのだそうだ。一人当たり莫大な費用をかけていただいて、まったく情けない。
 よくよく考え、生意気のそしりを恐れずに言わせていただけば、これは組織とか仕事のやり方とかを決める立場の人間、すなわち職場のリーダー達を教育して改革する方が先なのではあるまいか。管理職となっておられる方々は、みな経験もあり物事の判断にも長け、部下の鍛錬にも熱心でいられる。しかし、時には職場管理の普遍的な手法や成功事例などをその道のオーソリティから聴かれるのもいいのではないかと思う。
 本文の主題からいえば、業務の改善はその運営を担う人間こそがその成功の「鍵」となる。業務の改善は部下の意見に耳を傾けることから始まる。前述のQC活動に関する格言に「QCは業種、業務を選ばない。しかし親分、すなわち給料をくれる人を選ぶ」というものがある。集団においては、ことほど左様にリーダーの意識が影響を持ち、そのために大抵の企業は管理職教育に力をいれているのが職業教育の専門誌などをみても判る。

以上、改善提案制度とか社内教育に関する、私の担当分野ではない教育スタッフの縄張りについて述べさせていただいた。本文中に、実担当者以外のアイデアは意味がないと決めつけたにもかかわらずである。すなわちこの問題について論議するのは同スタッフの方が適切であるのはよくわかっている。ただ組織の末端の実施担当者の一人も、このような意見を持っていることを知っていただければ望外の幸せである。1990年1月(一部書換)


このときに入選したアイデアはその後どうなったんだろうか。ボツになったアイデアを含めて一人一人が注ぎ込んだエネルギーを思うと、その空しさに気が遠くなる思いだ。以後、同じような行事が行われなかったということは、経営者の気まぐれだったようだ。

一方当方は直後に改善提案制度を担当する部署へ異動となった。もちろん、この文章が評価されたからではない。モッケの幸いとばかりに研究を重ねて企画書を作った。でも、同僚はもとより上司にも一顧だにされなかった。当時の私のような立場の人間が考える類いの事柄ではないということなのだろう。その後は自らの権限の範囲内で行える小集団活動を基とした労働安全の方向に注力するようになった。

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